つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

三浦春馬さんの死を悼む~夜になると私の胸が痛む~

苦しかったのだろう

 

その苦しみから逃れたかったのだろう

 

苦しみから逃れたことを誰が非難できようか

 

貴方との突然の別れに多くの方が悲しんだ

 

貴方は愛されていたんだよ

多くの人に

 

今も苦しんでいる人がいる

体が苦しんでいる人もいる

心が苦しんでいる人もいる

 

心が苦しんでいるのなら

「『苦しい』と周りの人に言え」という

 

でもね

心が苦しんでいる人にとっては

心が苦しいと人に言うことも苦しいんだよ

 

心が苦しいと相談したら

「あぁ、僕もなんだよ」と言う人の多いことよ

 

実は僕にも経験がある

 

「実は僕もそうなんだ」

と言って、相談した僕よりも大変であることを言ってくる

 

ホントにあなたもそうなの

 

だったら僕が相談しに来たときに被せるように言わずに相談しなよ

 

あなたも苦しんでいるのに相談をしてごめんなさい

 

相談すると

「実は僕もそうなんだ」

と言う人が多い

 

上司や同僚や友達に相談すると、「僕もそうなんだ」と言われてしまう

 

そして僕の相談をたいしたことがないと片付けてしまう

 

相談を受けて「実は僕もそうなんだ」と言う人の多くは、「だからたいしたことはない」という意味が込められている

 

「今と前とは違うんだから」

という人もいる

 

だから何❓

今と前とは違うから何なの❓

相談した相手が間違っていたわ

 

苦しみから逃れた人に「相談してくれれば」と安易には言えない

 

苦しかったろう

悲しかったろう

 

残された人も辛いんだ

 

でもね

残された人の多くは時間が経つとともにその辛さが和らいでいく

貴方が過去の人になっていく

 

でもね

貴方を過去の人にできずにずっと貴方がいなくなった悲しみを持ち続けて生きていく人もいるんだよ

 

貴方も貴方をうしなった悲しみを持ち続ける人も

ただただ

いたましい

 

僕は貴方と縁もゆかりもない

僕は貴方のことを知らなかった

この件があるまで知らなかった

これまでの僕の生活の中に貴方はいなかった

 

そのような貴方になぜこんなに悲しくなるんだろう

 

僕の場合は貴方の死を自分の身に置き換えているのかもしれない

 

貴方の死を悲しんでいるのではなく貴方の死を通して自分の身内に置き換えているのかもしれない

 

息子と突然の別れとなったら

妻と突然の別れとなったら

母と突然の別れとなったら

と想像してしまい

ただただ悲しくなってしまう

 

父は病気で亡くなったが

私たちとは突然の別れだった

病を隠して気丈に振る舞っていたんだ

 

体の病気で亡くなったことでもこれだけ悲しかったのに

心の病気で自分に手をかけて身内が亡くなったら、どんなに悲しいだろうか

 

悲しむ人がいるんだよ

でもね

それでも私は貴方を責めることができない

 

悲しむ人がいることに気を回せないほど辛かったのだろう

 

死は救いなのだろうか

私にとっての答えはこちらのブログにあるが、これを他の人に強制はできない

私の個人的な答え

 

ただ言えることは

こんなにたくさんの人が貴方を愛していたんだよ

 

ただただ悲しい

やはり貴方の死が

 

 

前途ある若者の死が。