つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

新人講師の頃190204②(再投稿)ブログセレクション

ふと、新人講師の頃を思い出したよ😊。私、都内でバイト講師をしていて、就職先は、地方の大手塾だったの😳

 

その大手塾の当時の先輩講師が、カラオケで「もしもピアノが弾けたなら」の替え歌で、「もしも授業ができたなら」を涙ながらに熱唱していた😅。替え歌を、こういうところに載せるのはご法度なので、どんな内容だか、このブログを読んだ上で、ご想像にお任せする😁。

 

もしもピアノが弾けたなら

https://youtu.be/JIxZdROng7c

 

西田敏行 もしもピアノが弾けたなら 

http://j-lyric.net/artist/a000abe/l005d27.html

 

 

(1)大学生講師の頃

そう。大学生の頃、塾講の仕事をし始めて、自分でいうのもなんだが、結構、人気があった。teacherを文字って、Tちゃんというキャラクターを作って、自作のプリントで授業をしていた。このキャラクター、購入したミノルタの業務用ワープロで、ドットを埋め込んで絵にしたものだった。う~ん。今から考えると、ものすごい労力をかけたのだなぁ😅。

 

(2)新卒で塾に入社

大学を卒業し、地方のアンケートのある大手塾に就職した。得意な社会での採用だったが、講師の人数が足りないということで、あまり得意ではない英語を担当することになった。部長から頼まれて、やむにやまれずの判断だったが、あのまま社会科の講師であったら、今の自分はない。今より良い結果だったかもしれないが、結果としては良かったのかもしれないなぁ🤔。だって、今から考えたら、超ブラックだったから。基本、退勤の打刻はなし。朝8時から研修し、退社は夜の11時過ぎ。休みの日は理事長の別荘に行って徹夜の講話。この塾に勤めた8ヶ月で肝機能を悪くしたから、まあ、今頃、私はこの世にいなかったかも😱。その中で生き残った先輩方は○○○○以上の生命力があった。全然余裕はなく、不器用であった私の授業は、得意ではない英語であったこともあり、肩に力が入って、知識ひけらかし授業であったのだろう。アンケートの支持率マイナス20%というクラスも😱。授業はドンドン外されて行った。精神的に追い詰められていった。でも、授業をしたい、生徒に何か伝えたいという気持ちは強かった。

 

そのとき、もしも、授業コマがあったなら、思いの全てを授業にして、生徒に伝えたことだろう😎

 

(3)不人気講師となって

授業コマが0になってしまった。朝早く研修があり、お昼は、職員の昼食を買い出しにいく。これは不人気講師の役目であった。この立て替えも、結構痛かった。端数は切り捨てでお金を請求していたのだが、職員数がかなりいて、一月にすると結構な負担となるので、正規の料金で先輩職員に請求した。すると、

「同じものを頼んで、今まで○○○円だったのに、何で高くなるんだよ。」

と言われ、事情を話すと、

「それはあなたの問題でしょ。今までと同じ値段にしてよ」

と訳の分からないことを言われる始末🤷‍♂️。

まぁ、授業コマのない職員なんて、この会社にとってゴミみたいなものだったのだろう😓。

 

雨の降る日は模擬授業、風が吹く日は掃き掃除、晴れたお昼は買い出しへといった。だけど、私には授業コマがなかった。生徒に聴かせる腕もなかった😎

 

だから、授業を上手くしようと必死だった。全職員を前にした模擬授業大会では、頭が真っ白になって、泣いてしまった。(にしおかすみこかっ❗️(゜o゜)\(-_-))

 

あの頃は、心はいつでも空回りして、生徒に伝えたい熱い思いだけが残されたのだろう😎

 

(4)その後

関東圏の塾に再就職した。その塾は、私を育ててくれた。満足する授業ができるようになるのに、5年かかった。もともと、不器用だった私を、我慢してくれた。今、感謝とそれに反する気持ちとで複雑なものとなっているが、8割は感謝よ😊

 

(5)最後に

想像できましたか❓😁。替え歌の内容😎。ノンフィクションだし、大丈夫でしょう😅

 

(追記)

これも思い出深いブログなの😅。新卒で入社した会社は失敗だった。いや、過去の意味付けをすれば、この失敗は失敗ではない😁。この失敗があったからこそ、今の自分があるのよ。