生活の中の心理学④~腹が立ったら深呼吸~「つれづれなるままに心理を語る⑬」
今さっき、電車に乗るために乗車口で降車してくる人を待っていると、電車から降りてくる人が、わざとぶつかってきた😱。なぜ、わざとだと分かるのか。それは、肘でグイッと押してきた圧力が強かったからだ。
いや、私は邪魔なところには立っていない😣。降りてくる人の進行方向には立っていない。私には非がないと思う。私が中に入るのを邪魔をしたのかもしれない。
私の心の動きを再現しよう☝️😅
電車のドアが開く。私はドア口を開けて立つ。中から人が出て人は3人ほど。そんなに混んでいない。その中の一人が、ドアの脇に立っている私に肘をぶつけてきた。私が立っている場所は、彼の進行方向ではない。
イラッ💢
【私の左手が彼の肩を掴もうという衝動に駆られる。なぜなら、向こうがそのまま立ち去るからである。あれだけの肘の圧力があるぶつかり方をして、そしらぬ顔で立ち去ったのだから、やはりわざとぶつかったのだろう。だって偶然なら、ぶつかった瞬間、リアクションがあるはず。そのリアクションなく立ち去るのだから、これはわざとぶつかったと確信する。しかし、彼の肩を掴む衝動を抑え、電車に入った。】
このカギカッコの中は、時間にすると3秒も立たない瞬間の私の心情である😅。
この3秒の感情と理性の判断で、全く違った展開があると考えると怖くなる😱。彼の肩を掴んでいたら、彼に文句を言っていたら、彼を殴っていたら…。私の人生さえも変わっていただろう。いや、少なくとも、今、このブログを書くことは出来ないだろう。今頃、まだあの駅にいて、駅員室に連れていかれるか、もしかすると殴られて、意識を失い、病院にいるかもしれない😣。
悪い衝動を抑えるのは、日頃の訓練なのよ☝️😎。日頃から意識することが大切なのよ😁。
車の運転中、クラクションをどんなときにならすかな。危険なときに鳴らよね。突然脇道から車が出てきたら、クラクションを鳴らすだろう。
しかし、私は鳴らさない。もう車が出てきたのだ。ということは、危険は去ったのだ。危険が去った後にクラクションを鳴らすのは、腹いせである。トラブルの素である。出てこようとしていて、危険ならクラクションを鳴らすかもしれないが。煽り運転に関するブログはこちら👋😄
頭にきたら、その怒りを分析すると、それがアンガーマネジメントなのよ😉。
分析するには理性が必要である。そして、分析をそれに文字にして行くと、怒りが収まってくる。
私は彼の肩を掴んで何をしたかったのか❓🤔。彼に謝ってほしかったのか❓🙄。
冷静に考えれば、彼は謝らないだろう。だってわざとぶつかってきたのだから。私は「わざと」と決めつけている。私の中ではその根拠があるのだが、それは私の主観だ。わざとではないかもしれない。わざとではなければ、私が喧嘩腰の物言いをすれば、さらに彼は謝らないだろう。容姿が北斗の拳のケンシロウではなく、くまのプーさんなんだから、なおさらである😑。
ということは、謝らせようという行為は、無意味だ。喧嘩となり、解決しないのだから、駅員か警察が入ってくる可能性は高い。
仲裁に入った駅員や警察官は私の味方をしてくれるだろうか🤔。
味方はしないだろう。理由は分かる。わざとぶつかったかどうかの証明は不可能😣。相手の悪いことは証明できないのである。だって「わざと」と捉えたのは私の主観だから。相手の故意をどう証明しようとしても、このケースでは、最終的には私の主観と判断される。
一方で、私にとって不利な事実がある。その不利な事実は私自身が証明してしまっている。
皆さんは分かるかな?😎。
電車のドアが開き、男性がぶつかってきた。私が立ち去ろうとする彼の肩をつかみ文句を言った。
駅員「トラブルの原因は何ですか?」
私「彼がわざとぶつかったことです。」
男「普通に歩いていたのを、こいつが私の肩を捕まえて呼び止めたんだ。」
私「だって、お前がぶつかって何も言わずに立ち去ったからだろう。」
男「ぶつかってねーよ。」
さて、この私と男のやり取りを客観的に聞くと、どちらが正しいと受け取られるか?🤔。それは、男の方なのよ😣。
だってぶつかったか、ぶつかっていないかは水掛け論になっている。それに、私は実害を受けていない。彼がぶつかったかどうかは分からず、私が肩をつかみ彼を呼び止めたのは事実である。こうなったら私も肩をつかんだかどうかを有耶無耶にはできるが、私が呼び止めたのはのは否定できない。従って、因縁をつけたのは私の方になってしまうのよ😣。
ここで導き出される結論は、実害がないことは、感情を損ねたとしてもスルーするということよ。特に見も知らずの他人には☝️😣。面識のある人だったら、自分のプライドと怒りを天秤にかける。