つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

会いたい二人

あと何年、僕は生きられるだろうか。死ぬときに何を思うのだろうか。僕は死んだあと、会いたい人がいる。父と大学時代の友人だ。

 

1週間前に、僕が父を駅に送る車の中で、父が僕に言った言葉を忘れることができない。いや、ふと思い出す。そう、4月10日にも書いていたんだなぁ。


幸せを守る者190410 - つれづれなるままに

 

「お母さんはお前がいるから大丈夫だな」これをブログに書いている今も涙が出てくる。

 

この言葉には2つの意味がある。1つは父が母を愛していたということ。「愛」なんていう直接的な言葉なんか父は使わないし、それが愛とも認識していなかっただろう。私も含めて周りの者にガンの進行を悟らせず、でも、自分の死後の母のことを気がかりにしていた。母が生活できるだけのお金は残してくれた。だから、この「大丈夫だな」には、経済的なものは含まれていない。精神的なものに違いなかった。

 

あなたの死後、僕は頑張ったと思う。一つ屋根の下に「妻」「子」「母」がいる。どう頑張ったかは書かずにおこう。私は、微妙なバランスを保つやじろべえである。

 

父に誉められたことは少ない。父が好きかと聞かれたら、「嫌いではない」という答えだろう、当時は。

 

かなり怖い父だった。父が休みの日は、色々なところに連れていってくれるのだが、父の休みの日が待ち遠しいという気持ちはなかったの。だって怖いから。

 

私の息子への接し方は、父を反面教師にしていると言ったら、父は怒るだろうか。でも、そんな父のおかげで、今の自分があり、薄給でも経済的に困らず生活できている。チューは、いつも私に「パパはいつお休み」と聞く。私ね、結構厳しく言うこともある。でも、冷静に厳しくなの。甘々オヤジと冷静で厳しいオヤジの使い分けは、父を反面教師にしているかなぁ。でも、友達の数は父にかなわない。だって葬儀に500人の列ができたのよ。私は友として来てくれそうな人は片手の指の数もいないよ。

そういえば、私は父に「ありがとう」と感謝の言葉を言ったことがない。感謝の気持ちを、今、父との約束を果たしていることで伝えていると受け取ってもらおうと思う。誉めてもらおうと思う。

 

大学時代の旧友は、県庁に勤め、入庁1年もしない内に過労死で亡くなった。死因は脳溢血かくも膜下出血だった。二浪して大学に入り、卒業後は司法書士を目指してスクールに通っていた。27歳で方向転換し、県庁に入り、その年度の1月4日、亡くなった。なぜその日を覚えているのか。それは、正月明け、冬期講習会中、彼の弟から電話をもらったからだ。携帯電話に彼からの着信があった。私は「おっ、珍しいなぁ。電話をしようしようと思っていた。去年、彼が(県庁に入庁祝いで)東京に来たとき会えなかったからなぁ。」と喜んで折り返し電話をすると、弟が出てきて「兄は亡くなりました」と言われた。

 

おい、また、話したかったよ。バカやりたかったよ。1年半前に、お盆休みを使って彼に会いに行っているんだよね。

 

葬儀は盛大で、入庁したてのペーペーの彼なのに、お偉いさんが多数来たんだって。私はその葬儀には行けず、後日、出張の途中よったということにして、彼の家に焼香をあげに行ったときに聞いた。母親いわく、入庁1年目からハードな部署に配属されて、休みもなく、朝から晩まで働いていたとのこと。やっと休めたのは年末年始で、頭が痛い痛いと言っていた。休み明け病院に行こうとしていた矢先だった。弟と、1月3日の夜に映画のビデオを借りてきて、二人で見ていた。後で見ていた兄が急にこたつで倒れ、変なイビキをかき出し、そのまま起きることはなかった。

 

私には親友と呼べる人は3人しかいない。彼はそのうちの1人であった。

 

なんか疲れていると、こんなことを語りたくなってしまう。それとも前回のブログで「うつ」や「自死」について書いたからかなぁ。