つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

「なぜ僕らは働くのか」という問いの意味🤔

本屋に行ったら、子ども用の書籍の中に「なぜ僕らは働くのか」という題名の本があったのよ🤔

この本を読んだわけではないが、この題名が気になった。それは「なぜ働くのか」と疑問がわくことに引っ掛かったのよ☝️😅。

 

確かに、子どもに仕事をする意義や理由を考えさせることは大切であることは分かる。いや、生きていくには、仕事の意義や理由を伝えた方が良い。

 

しかし、「仕事をする理由を教えなければならない状況」に疑問を持ったのよ。皆さんはおかしいと思わないかしら🤔。

 

仕事をするのは、「生きがいを得る」とか「社会貢献」などといった理由があるけれど、最も根本的なものは「生きるため」であろう。仕事をする理由を考えなくてはならないのは、それだけ裕福であり、余剰物があるからだと思うのよ🤔。

 

だって、猿人や原人が「働く理由」なんて考えたかしら🤔。考えてはいないわよ👋😅。だって日々生きるのに懸命だったんだから。まぁ、私は猿人じゃないから、そういうことを猿人が考えたかどうかは分からないが😁。だから、「猿人は働く理由を考えなかった可能性が非常に高い」とでもしておこうか😎。

 

彼らは懸命に狩猟・採集・漁をして、命を一日一日繋いでいくので精一杯。そんな彼らが「狩猟する理由は何か」とか「漁をする意義」なんて考えたかしら🤔。やはり考えたわけないだろうなぁ。だって狩猟や採集という仕事をすることが生きるということだから。

 

そんな疑問を持つようになったのは、自然を人間の都合の良いように作り変えて、自分が食べる量以上の食べ物を作り、食べ物が余り、余剰物が発生した頃からだろう🙄。特に、持つものと持たざるものが生まれ、持つものの方の階級に属した人たちが、暇をもて余し、仕事をする理由などを考え始めたのだろう🤔。

 

それに、余剰物が発生すると、仕事が生きることと密接に関係しなくなった。

 

狩猟や採集、漁、それに農業をして、自給自足をしているなら、自分の仕事が生きることに密接に関係している。自分が育てたものを食べて生活をしているのなら、自分が食べる物を作るという仕事が自分の命に直結している。

 

しかし、余剰物が発生し、また、貨幣経済が発達し、商品作物等を作るようになると、自分が作ったものを売って、お金を得て、そのお金で生活するようになる。自分がしている仕事と食料を得ることが間接的になる。「仕事」と「生きること」の関係が稀薄となる。

 

すると、仕事をすることは「生活を支える」こと以外の意義が必要になってくる。また、仕事をしなくても生活できれば、「なんで仕事をするの」という疑問がわいてくる。

 

「おい、その疑問を、例えばアフリカに住む貧困で苦しんでいる人にしてみなさいよ。」😔。

 

彼らは絶句するだろう。

 

それは「なんで勉強するの」と疑問を持つことと同じである。貧しい国に行くと、大人も子どもも学ぶことに飢えている。その人たちに「なんで勉強するのだろう」と聞いてみよう。絶句するから😌。

 

したがって、仕事をする理由が必要であったり、勉強する理由を疑問に持ったりするということは、「贅沢病」だと考えた方が良いのかもしれない🙄。

 

哲学や芸術の発達もそうだろう。余剰物があり、働かなくても生きていける不労所得があるものがいなければ、これだけの発達はしなかったろう。

 

ということは、仕事と生きることを間接的なものとし、この「不労所得」という階層を産めたことが、現代人が地球を支配するようになった原因の1つなのかもしれないとも思ったのよ😔。「生きること」と「生きるための仕事」の乖離が、人間に高度な知性を生んだのかもしれないなぁ🤔。

 

だからといって、第一次産業に従事するものは高度な知性がないと言っているわけではないのよ👋😨。だって農業の出現が、社会の構造を大きく変えたのだから。

 

私はこうも思うのよ🤔。農業が生まれる前と生まれた後では、人類は大きく変化していると。

 

農業は紀元前9500年頃、地中海地域で行われるようになったと言われる。

 

そこから、エジプト文明が栄えたのは紀元前3000年頃か🤔。今から5000年前ね。

 

少なくとも今から5000年前と今の人間は、根本的な意識やものの捉え方は同じなんじゃないかと思うのよね。まぁ、その後、約4800年後に、産業の大きな変化があり、そこでまた人間の意識に大きな変化があったのだろうけれど😔。それでも、大地を人間の都合の良いように変えた農地で農耕をして、食料を得ている点では、5000年前と今は変わっていない。

 

「なぜ僕らは働くのか」いう問いが存在するのは、贅沢病ではあるが、高度な社会の証明なのかもしれない🤔。いや、高度な知能を持った証なのかもしれない🙄。

 

「なぜ働くのか」という疑問は、「なぜ生きるのか」という疑問に繋がる。人間以外の動物が生きることの意味を考えるわけがない。

 

「なぜ働くのか」と聞かれ、「それは生きるため」と答えたとしたら、「なぜ生きるのか」と聞くだろう。それが「哲学」となるのだろう。でも、「なぜ生きるのか」の答えって、絶句するなんじゃないかなぁ🙄。なぜなら、生物は「生きること」が前提で、その生きることに疑問の余地はないから。

 

憲法には「生存権」がある。「なんで生存権があるの」なんて聞く奴に答えを教えるとしたら、死なない程度に首を絞めて、「これでもそんな疑問はわきますか」と聞けば良い。

 

まぁ、そんなことが出来ないから言葉で説明をするのだろう🙄。

 

「なんで僕らは働くのか」とか「なんで僕らは勉強するのか」とか「なんで僕らは生きるのか」という疑問に、スラスラ答えることができる大人を信用してはならぬ。だって、そんな根本的な問いはとても難しいことだから😅。

 

でも、そういう根本的な問いをし続けることは大切なことだと考える。そして安易に「~しなくても良い」とはならないでほしい。「仕事をしなくても良い」とか「勉強しなくても良い」とか「生きなくても良い」とかね😔。

 

へべれけで書いたブログよ~😁。
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でも、いつもと同じブログの質を保っているかしら😎。

 

まぁ、こんなブログを書いている私も贅沢病なのよね😅。

 

目が回ってきたわ🌀🌀😵🌀