喪失感~うしなって鮮明になることがある~
そうか🙄
今、私が書いているブログは、永遠に残るものではないのよね🤔。
それは100年後という遠い日ではなく、5年後や10年後という私が生きている間に、このブログが消えてしまう可能性はあるのよね😨。
例えば、はてなブログを運営している会社が倒産したら、このブログも消滅するわ。
永遠に残しておく価値のある内容のブログじゃないけれど、少なくとも自分の生きている間は残しておきたいわね😅。
プリントアウトするにしても、結構あるわね😁。
1000ブログを越えているんだもの。ブログを1日10個プリントアウトしても、3ヶ月以上はかかるわ😅。
なんだろう🤔。
写真もブログも本も絵画も、そのほとんどが永遠に残るものではない。いや、生命自体が永遠ではない。だから、ブログや写真が消滅したって、さほど大きなことではない。
1000もある私のブログも、普段の読み返しているのはごく一部。検索にかかるブログはさらにごく一部。
このごく一部がなくなった喪失感は分かるが、普段見ていないもののなくなったときの喪失感は、説明が難しい。
十年来会っていない友人が亡くなっても、喪失感はあるだろう。
昔ファンだったタレントが亡くなっても、喪失感があるだろう。
自分の生活圏外のものでも、喪失感を持つのはなぜだろう。
それは、もう絶対に会えないからかしら。
毎日の生活の中で、いつも出会う人が亡くなったり、いつもあるものが失くなったりして、喪失感を持つのは分かる。それがテレビの中で一方的に知っているタレントであっても同じだ。
しかし、ついさっきまでその人のことを忘れていたのに、全く無関心だったのに、その人が亡くなったと知って感じる喪失感の納得する説明ができない。だってその人のことを、ついさっきまでずっと忘れていたのよ。それで、亡くなったと聞いて、喪失感を持つって、なんか虫が良すぎじゃないかしら。
遠く離れて暮らす親や兄弟や子どもといった肉親なら分かる。縁が深かった人なら分かる。
人生の中でほんのちょっと私の人生と彼の人生が交わっただけなのよ。たったの半年よ。そのあと、全く縁がなかった。
それでも彼が亡くなって、彼との思い出が鮮明になっている。