つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

生き辛さの原因は🤔~近代民主制と地縁社会

民主主義って真理かしら🤔。

 

 

先の自民党の総裁選や眞子さまの結婚報道を見ていると、民主主義に疑問がわいてきたわ😔。

 

 

私の飛躍した思考よ。

これから述べることは考えがまとまってはいないわ。それは了承の上で読んでね😉✨。

 

 

民主主義というか、近代民主制の前の政体は、概ね、貴族制であり、その前は王制だとざっくりと考えて良いだろう🙄。

 

 

その貴族制や王制から見たら、近代民主制は否定されるべきものだろう。政治は一部の利権者が行うものだ。民衆が民衆によって民衆のために行うのが正しいとなったのは、歴史的に見ればごく最近だ。

 

 

じゃぁ、近代民主制とは何を土台としているのだろうか🤔。

 

 

民衆が主権を持っているのだ。主権とはざっくりと解釈すると政治上の最終的な決定権を持つ者だ。

 

 

国を構成する国民一人一人が判断をして決定する。

 

 

近代民主制と人権思想は密接な関係があることは誰も否定はしないだろう。一人一人が独立して、個人として尊重される。個人主義だ。

 

 

この個人主義って本当に素晴らしいものなのかしら?🙄。

 

 

個人主義がもてはやされるまで、血縁、地縁、身分を人は重視していた。

 

 

繋がりがあったのよね🤔。

 

 

その繋がりが、今ではどれも諸悪の根源とされてしまっている。

 

 

例えば

結婚=血縁、地縁、よりも個人の自由だろう。

 

地域との交流=地縁なんてめんどくさくてうざったい。地縁よりも個人だろう。

 

身分=もってのほかだ。

 

 

確かに、この個人主義によって得られたものは多い。とくに身分主義なんて理不尽きわまりない。

 

 

しかし、人と人との繋がりを分断したのも個人主義なのよね🙄。そこを理解しないと、都会の孤独も孤独死も理解できないと思うのよ🤔。

 

 

今ではプライベートを重視し、会社の仲間は家族でも友達でもない、ただ働いて利益を出し合う仲間としての繋がりのみになった。

 

 

個人情報の保護もそうだろう🤔。

 

 

たしかに、個人情報を悪用する悪い奴がいるから保護しなくてはならない。しかし、そのため学校も会社も職員の名簿録さえ作ることが出来なくなった。だから、連絡先が分からない。儀礼とはいえ、中元、歳暮、年賀状も出せなくなった。

 

 

それらは皆、悪習のレッテルを貼られた。

 

 

そういった血縁、地縁、会社の縁…🙄

 

 

そうか☝️😲

 

 

「縁」を分断したものが個人主義であり、その個人主義の上に成り立っているのが民主主義といえよう。

 

 

派閥も縁よ。その縁の繋がりが悪いとされる。

 

 

政党という繋がりは問題がない。しかし、党議拘束は問題となる。

 

 

そうか、会社という繋がりは問題がない。しかし、それを疑似家族とするとブラックになる。

 

 

国を国家と表現することも疑似家族だからなぁ🤔。国を家族に見立てるのも今は問題になろう🙄。

 

 

個人主義が極まると、権威が失墜する。だって権威よりも個人の方が重視されるのだから。

 

 

ここに、あの眞子さまの結婚問題の根幹があると考える。いや、平成の天皇の譲位にも及ぶ。

 

 

ここで考える🤔。

なぜ個人がそこまで大切なのかと。

 

 

いや、自分のことは自分で決めるというのは大切なことよ。

 

 

個人は社会と繋がっているし、社会の構成要素よ。

 

 

死を選ぶのも自己決定権の1つだという。

 

 

昔は地縁、血縁という繋がりが強く、その縁を死で断ち切るのは悪いこととされていたのかもしれない。また、宗教が歯止めになっていたのかもしれない。

 

 

しかし、個人主義の登場で、自己決定なるものが最高の善という考えが浸透した。

 

 

地縁、血縁、身分、権威というものをズタズタにした。収拾のつかないものにした。王を殺すと収拾がつかなくなり、殺し合うことになるのはこれも原因かも🤔。

 

 

そのズタズタにした繋がりを、新たに繋がりを持たせたのは、政党だとか、会社だとか…、なんか出かかっているんだけれど出てこない😅。契約による集団よね🙄。

 

 

契約かな?🤔

意思か?🙄

 

 

社会契約論か~🤔。

国家は国民の契約の上にあると考える政治思想だ。

 

ルソーにとっての自然状態とは、自由で平等な状態だ。

 

 

それって本当かしら🤔。

 

 

自由で平等な状態ってこの世にあるかしら🙄。ないわよね😅。

 

 

ということは「自由で平等な状態」って、この世にないことを理性で考えて出来た素晴らしい状態だ。その理性で考えた素晴らしい場所を理想郷という。ユートピアだ。

 

 

ユートピアの原義は「どこにもない場所」という意味なのよね🤔。

 

 

儒学は、堯舜の世を理想として、その頃の政治に帰れと主張する。神話伝説の時代を理想とした。

 

 

近代民主制の根底には、社会契約論がある。社会契約論では、自由で平等な状態が自然な状態だと説いた。その自由で平等な状態なんてこの世にないのに、それを根底に置いて、社会契約論を考えた。

 

 

儒学と民主制、全く異なるものに見えるが、その根底は同類である。この世にないものを理想としたり自然としたりしたのだ。

 

 

だから歪みが生じてしまう。

 

 

今回は儒学の歪みについては語らないでおこう。それはこれまでもブログの中で書いてきたから😅。

 

 

民主制の歪みは、個人主義を前提にしているがため、自由で平等な状態なんてこの世にないのに、それが自然であり、最良であると説いたことである。そのため、社会に実際にある人と人との繋がりを絶ってしまったことだ。

 

 

お互いに干渉し合わないのがよしとされ、孤立を深めた。そして、個々に独立した状態とした。

 

 

力のない個人がジャングルに1人で立っている状態にしてしまったのだ。自由って辛いことなのよ😱。繋がりを断ち切り、自分で決断する。

 

 

干渉されない居心地の良さと引き換えに、孤独を得たのだ。

 

 

私は行きすぎた個人主義に警鐘を鳴らす。私は地縁や血縁も大切だと考える。

 

 

しかし、民主制は、個人と個人が地縁や血縁としてではなく結びついたところが素晴らしいんじゃないかしら🤔。

 

 

地縁や血縁には自由意思はない。

 

 

今は、地縁や血縁を抜きにした集団や組織が常識よね。

 

 

例えば会社、サークル、NGO、ボランテァア、政治結社…。

 

 

現代社会にある、ありとあらゆるものは自分の自由な意思で人と人とを結びつけている。

 

 

この自分達の自由な結び付きが組織になる。大きくは国になる。自分の判断が多くの人に影響を与えるのだ。

 

 

だから、自分の決断は自分のためだけのものではなくなる。

 

 

死を選ぶのは自己決定権の1つだとはならなくなるのではないか。だって、私の決断はあなたに影響を及ぼし、あなたの決断は私に影響を及ぼすのだから。そういった社会が近代民主制の社会だと考える。

 


 と、考えていくと、民主制も個人主義も人間にとってベストではないが、ベターな体制なのかもしれないなぁ🤔。

 

 

個人主義は、利己主義に陥る危険性をはらんでいる。その歯止めは必要だわ😄

 

 

50歳一歩手前の、コネも友もない初老にさしかかったグータラな私にとっては、地縁や血縁の分断は過酷だなぁって思ってしまうのよ😅。

 

 

民主主義も個人主義もちょっと辛い。

 

 

この後、日本人論を書こうと思ったけれど、なんだか疲れたので、ここまでとするわ😅。

 

 

まとまっていないのはいつものことだが、今日の内容はさらにまとまらなかった😅。それでも良いの。それが私の脳ミソの味だから😎。