つれづれなるままに

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池袋乗用車暴走事故とは言いたくない~それならば何と言う~

ヨボヨボと車道を横切る老人がいた。私は車を運転しながら、「危ないなぁ」と思った。

 

車道は車が優先だ。

歩道は歩行者が優先だ。

 

でも、待てよ🤔。

 

この道はなぜ車が優先なのだろうか?

 

車が通る道はこんなに広く、歩行者が通る道はこんなに狭いのか?

 

そして、歩行者が道を横切ることより、車が直進することが優先されるのはなぜだろう?🙄

 

青臭い疑問かしら😅。

 

やはり、経済、効率、速さ、強さが優先される世の中だということよね🙄。

 

先へと急ぐものが優先される。

経済的効果が高いものが優先される。

 

自動車がこんなに優先されるのも自動車がお国の基幹産業だからかしらね。

 

池袋乗用車暴走事故の裁判


池袋乗用車暴走事故 飯塚被告「車の不具合、再起動で元に戻った」【速報・被告人質問】:東京新聞 TOKYO Web

飯塚被告の主張が認められたら、おちおち外を歩けなくなるわね😨。

 

だって、ただでさえ車優先の道路なのに、事故れば全て「車に不具合があった」と言い張れば、過失がなくなるというんでしょ。それに、ほとんどの道が自動車に占領されて、ほんのわずかな歩行者優先スペースの横断歩道を何の落ち度もなく渡っていて轢き殺されたのよ💢。というと飯塚被告側に立てば、こちらも落ち度はないと反論するだろう。

 

いや、まだ判決が出ていないから、安易なことは言えないわ。

 

公判で、飯塚被告は、ブレーキを踏んだが、効かなかったと主張した。松永さんは「ブレーキを踏めば、油圧で物理的に制御されるはずだ。少なくとも加速はしないのではないか」と質問すると、飯塚被告は「私の記憶ではますます加速した。油圧でブレーキが作動していなかった」と答えた。
 「同時に壊れたのか」と問われると、「それは分かりません」と述べた。

 

遺族の松永さんに敬服する。

 

声を荒げても良い状況なのに、冷静に質問している。そして、専門家である被告に対峙するため、とても車の勉強をしている。

 

これだけ客観的事実(データや目撃者の証言)が出ても、自分の「ブレーキを踏んだ」という記憶を事実にする思考回路って、どんなものなんだろう。

 

「もう心を鬼にするしかないです」。松永さんは強い決意を示す言葉で、飯塚被告への直接質問に臨む思いを口にした。「でも…本当はそんな気持ちは好きじゃないですし、真菜と莉子には自分のそんな姿は見てほしくない。葛藤はありますけど…」。強い決意と揺れ動く葛藤。遺族としての等身大の感情だった。


「もう心を鬼にするしかないです」遺族の松永拓也さん、被告人に初の直接質問…池袋暴走母子死亡21日公判(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

 

そうだ。被告が「客観的な事実より、主観的な自分の記憶を事実とする」という遺族にとって心を悪魔にした弁護方針に従っているのなら、もしくはそんな悪魔のような心の持ち主が相手ならば、遺族も心を鬼にしなくてはならない。これを周囲は非難できない。

 

遺族は、被害者の死に心を深く傷つけられ痛めているのに、心を鬼にしなくてはならないなんて。なんて理不尽極まりない出来事なんだう。

 

光市母子殺人事件で被害者の夫である本村さんは被告が無期懲役となった一審判決後に、「司法に絶望した。加害者を社会に早く出してもらいたい、そうすれば私が殺す。」と言って世間からバッシングを受けた。

 

私刑を実行するのは法治国家において犯罪だが、殺人の遺族の気持ちを吐露しているとも考えて良いだろう。

 

人権派弁護士で死刑廃止論者であった岡村勲弁護士は、山一證券問題に際して逆恨みした男性によって妻が殺害された。それから死刑存置派となり殺人事件の被害者やその遺族の権利向上活動をしたという。

 

本村さんと岡村さんは犯罪被害者等基本法の成立や被害者・遺族の刑事裁判参加可能にした被害者参加制度導入に貢献したそうだ。

 

被害者遺族の気持ちは被害者にならないと分からないということかしら。

 

いや、裁判に感情を持ち込むことはいけないことも分かる。あくまでも法に従って裁かなくてはならない。

 

でもなぁ、飯塚被告も、こんなに言い張らなければ、高年齢もあり、情状酌量の余地もあっただろう。一時期、自分の過失を認める発言があったのを覆したとも言われる。それは警察の誘導尋問があったからだというが、そうではないような気がするの🤔。

 

高級官僚だから、自分が優秀で他責が強い可能性がある。いや、「高級官僚だから」というのは偏見だが。ある人の行動をもって一般化するのは良くないが、官僚のトップを張った人ならば、そう受け取られてしまうよなぁ🤔。

 

事故を起こしてから時間が経っていないときならば、自分のミスを疑っていたかもしれない。

 

裁判って神聖視されるけれど、ゲームなのよね🤔。ディベートゲーム。

 

金持ちの彼が雇った優秀な弁護士は、詭弁を使ってでも法の抜け穴を探し、その一点を突いて弁護し、刑を軽くしようとする。

 

検察側は、そうはさせじと、証拠を並べる。

 

アメリカには「司法取引」がある。被告が罪を認めれば、刑を軽くしてやるなんて😱。取引で刑が軽くなるなんて❗️❓️。

 

でも、アメリカではそれが常識よ。

 

罪と罰よね。

罰が軽くなろうとも罪は変わらない。それにキリスト教では、キリストが再臨し、最後の審判をやってくれる。真実の裁判はそこでやる。そして真実の罰をそこで受ける。だから、人間界の裁判なんて、人がやることなんて神がやることと比べると高が知れているので、取引で済ませてしまう。

 

なんて合理的なの😱。

 

日本人はここまで合理的になれない。だから、飯塚被告側の主張に違和感や反感を持つのだろう。裁判は勝ち負けのゲーム。そしてそこで有罪になろうとも、刑務所で刑期を終えればリセットされる。

 

事件の被害者になっても、いや、もっと具体的に考えよう。自分が松永さんや本村さんや岡村さんの立場になっても、飯塚被告の主張を承諾せずとも承認できる人が真の合理主義者と言えるのかも🙄。私は承認もできない😣。感情が入ってしまう。

 

池袋乗用車暴走事故の裁判の様子を語るテレビ番組を見ていて、光市母子殺人事件と山一証券代理人弁護士夫人殺人事件を思い出した。

 

この池袋乗用車暴走事故の裁判の結果、もしも飯塚被告の過失が認められたら(原告が勝訴したら)、「池袋乗用車暴走『事故』」という名称は使いたくない。

 

「池袋乗用車暴走『◯人事件』」と言いたくなるわ。

 

◯と伏せ字にしたのは、 まだ私に理性があるからよ😣。

 

あぁ、この世の不条理は、ここかしこ。