徳川吉宗と徳川家重と田沼意次🤔~名君と障害を持つ将軍と賄賂政治家~
歴史好きな人なら分かるよね😄。
江戸幕府8代将軍徳川吉宗は「幕府中興の祖」で英邁な名君。
江戸幕府9代将軍徳川家重は「言語不明瞭で障害を持った」無能将軍。
9代将軍徳川家重と10代将軍徳川家治に仕えた老中田沼意次は商人から賄賂をもらった腹黒い政治家。
しかし、視点を変えれば、全く異なる評価になるのよね😁
なるほどなぁ🤔。私はこの記事の内容に同意しない。歴史の評価は多面的なんだれけど…。
この記事の突っ込みどころはたくさんあるんだけどね😅。
4歳年少の二弟・宗武は家重と違い、この頃には父・吉宗の前で「論語」20編を暗記して淀みなく述べて父を驚かせたという才人であった。
当時の常識が「儒学」であり、「朱子学」が幕府の学問だったからなぁ🤔。言い換えれば、朱子学が当時の国教だったのよ。だから4歳で「論語」を暗唱できたら、そりゃ~頭が良いよ。
しかし、暗記力と政治力、人間力は別物よね🤔。
だって今でもいるじゃない。学力偏差値80でも、人間偏差値が30の人が。そして、自分は他の人と違うと勘違いしている人が。そういう人が権力をも持つと世の中がおかしなことになるのよね😥。
当時の武士の常識は「儒学」であり、その中の「朱子学」だったので、その常識を叩き込まれるのは仕方がない。しかし、この吉宗と家重の評価はどうなのかしら🤔
吉宗が改革したすべてが家重政権では弛緩(しかん)して、金権万能・賄賂の横行・士風の乱れ・退廃世相となった。農民一揆は各地に起こり、尊王思想が自然発生し「宝暦事件(竹内式部事件)」などが起きた。家重の嫡男は家治。宝暦10年(1760)、家重は家督を家治に譲り大御所を称したが、宝暦11年6月、51歳で病死した。
朱子学は「商い」を軽視する。吉宗も米将軍といわれるぐらい、お米を重視した。そして、大権現様(徳川家康)の世の中を理想とした。
当時の世の中は自給自足から貨幣経済へと移り変わっている。その世の中で「商い」を軽視し、大権現様の世の中を理想にするなんて、時代錯誤も甚だしいわ😨。だから、吉宗の改革は成功していない。時代の流れからすると逆行する「改悪」だった。
吉宗は米を増産した。新田開発をして米を増産すれば、米の価値が下がる。米の価値が下がれば、米で支払われる武士の給与は実質下がる。武士の生活は苦しくなる。それで吉宗は米相場にも手を出して、米の価格をつり上げて、年貢米を売り抜いたとも😨。
行き過ぎた緊縮財政で経済が落ち込んだ。将軍以下、武士も町人も贅沢を禁止にして倹約してしまい、経済不況を招いた。たくさん米を作らせて、その米の値段を上げようしたんだから、経済オンチよね。
いや、吉宗は当時の武士の常識の中で、当時の政権たる幕府の財政を建て直そうとしてことは責めようとは思わない。
しかし、尾張藩の徳川宗春のような経済通の大名もいたのよね🤔。
確かに宗春は結局尾張藩を財政破綻させたのだから、政治家としての評価は出来ない。しかし、当時米経済が破綻しつつあり、貨幣経済や商業を重視の政策をあの当時にしたことは評価できる。
吉宗の改革は、改革ではなく極端な保守的な政策で、長期的な視点では幕府の財政を立て直したとは言いにくい。
それに吉宗は徳川家康のころの政治を理想とし、質素・倹約をすすめたのよ。
これは絶句よ😱。
何が絶句だか分かるかしら❓️😨。
私が吉宗を評価できない理由はここにある。改革の成功や失敗は運もあろう。時期もあろう。失敗したから評価しないとは私はしない。失敗しても評価できることなんてたくさんある。
享保の改革は1716年に始まったとされる。家康が死んだのは1616年。100年も前なのよ。
100年前と後では、当然、社会も経済も異なっている。人々の意識だって異なる。それで100年前の政治が理想でそこに戻そうなんて、宗教よね😥。
過去は良かったから過去に戻せ。神話の世界が理想とし、それをもとに政治をしようとしたのが儒学なのよね🤔。
その後、明治維新は王政復古という600年前の政治に戻そうとしたとされるが、それは日本人の精神的な柱を天皇にしたのよね。政治も経済も欧米諸国を見習った。王政復古は精神的な支柱で、政治も経済も今に合わせようとしたから成功したのかも🤔。
「吉宗が改革したすべてが家重政権では弛緩した」というが、それは吉宗の強権的な緊縮倹約政策の反動とも言えるわけで。強権的な緊縮倹約政策は長続きしない。
現代人だったら良く分かるんじゃないの。コロナ禍で緊急事態宣言が出されても、それに従わない人がたくさんいるじゃない😅。
酒が飲みたい、会食したい、旅行にも行きたいし、マスクはつけたくない。
その「~したい」という欲求に負けて、感染を抑えられないじゃないか😣。
贅沢をするなと言われて、倹約を強制され、取り締りされることが20年から30年も続いたんだから、その反動は大きい。
それにね。江戸幕府の三大改革なんて言われるけれど、改革なんてものじゃないわ👋😲。
だって
1716年~1745年
享保の改革
1787年~1791年
寛政の改革
1830年~1843年
天保の改革
寛政の改革と天保の改革とは享保の改革を倣って、享保の改革は徳川家康の政治を理想にしたのよ。ということは、天保の改革でいうと、230年前の政治を理想とし、それを実践したってことよ。
今の世の中でいうと、寛政の改革を見倣って政治をすることになるわね😱。
これではうまく行かない。
改革ではなく改悪にしろとはいわないが、政治とすれば良いのに。
それに天下国家が倹約をして出し惜しみしたら、下々の生活は苦しくなるのは当然だわ。
という経済的な視点を踏まえると、
吉宗が改革したすべてが家重政権では弛緩(しかん)して、金権万能・賄賂の横行・士風の乱れ・退廃世相となった。
という家重の治世の評価は不当だと考えるのよ。なんかこの評価は朱子学史観って感じよね🤔。だって、吉宗の倹約緊縮政治が良くて、それを弛緩させたのが悪いということは、倹約緊縮政治をずっと続けろということよね🙄。だって一説には享保の改革は30年近く続いたのよ。
今の日本人は、このコロナ禍で、たったの1年も引き締めることができないのよ。その引き締めが30年におよんだのよ。この記事を書いた人は、じゃぁ、あと何年、倹約緊縮をすれば良いと考えているのかしら🤔。
「金権万能・賄賂の横行・士風の乱れ・退廃世相となった」のが正しいのなら、それは吉宗の行き過ぎた倹約緊縮政策の結果であって、家重の責任だけではない。吉宗9割、家重1割で吉宗の責任が大きいと私は思う。
家重は言語不明瞭だったといわれるが、大岡忠光や田沼意次といった身分が低いが優秀な家臣を抜擢しのよ。それだけとっても、家重は優秀な政治家だと言える。
そうそう☝️😄
田沼意次って賄賂政治家とされているが、商業に朱子学的偏見があった時代に、重商主義的な政策を行った先見の明がある優秀な人物なのよ。
私が小学生の時に読んだ本よ。大人になって読み返してみたら、当時としたらとても斬新な歴史解釈をしているのよ😄。
この作品を私が読んだ40年前では、老中・田沼意次は悪者という評価だった。それが実は江戸時代の発明家でありエレキテルの平賀源内と仲がよく、開明的な人物として描かれている。構成も少年物の物語の王道をいくもので、楽しく読めるわよ。皆さんも読んでみてね😉。
歴史上の人物は、視点が変われば評価も変わる。でも、徳川家重や田沼意次の評価が低いのは納得できないなぁ🙄。二人の評価が低いのは、家重は言語障害があったこと、意次は徳川の譜代の家臣の評価を鵜呑みにしていることが原因なのかもしれない。