つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

人を容姿で判断しても良いじゃないか🤔~だって能力の有無は区別されるんだもの~

「人を容姿で判断してはいけない」と言う。「能力は容姿と関係ない」とも言う。確かにそうなんだけれど、腑に落ちないこともあるのよね🤔。

 

能力が劣っている人は、能力をつけるように頑張らされるわけよね🤔。でも、容姿が劣っている人に、容姿が良くなるように頑張らせるのは不味いということになる。それに、容姿が劣っていることを理由に採用を見送るのはご法度だが、能力が劣っていて不採用になるのはオッケーとなるのよ🙄。

 

いや、分かるのよ👋😄。「人は見かけによらない」というし。

 

でも、この「人は見かけによらない」と言う言葉も、「見かけは悪いが能力がある」と言う意味で使われていて、「見かけが良いが能力がない」と言う意味では使われないわよね🙄。いや、そういう意味で使われることもあるかもしれないが😅。

 

見かけで人を判断してはならないのに、能力で人を判断して良いのはなぜ❓🤔

 

いや、能力の有無で人を判断しても良いのよ。学校に入学するには学力、会社に就職するにはその会社が求める能力の有無で判断される。

 

じゃぁ、容姿の良し悪しで人を判断しても良いじゃないのかしら🙄。だって、どうしても好かれる容姿と好かれない容姿があるものね。綺麗事ではなく、これはある。どうしても生理的に受け付けない容姿があっても、受け付けない人を責めちゃダメだと思う。だって感情なんだもの😔。

 

学力が低ければ塾に通う。資格が取りたければ、資格が取れるように能力をつけるために予備校や専門学校に通う。通うにはお金がかかる。

 

容姿が悪ければ、美容整形したり、フィットネスに通ったりして、容姿をよくすれば良い。通うにはお金がかかる。

 

能力が低い人が会社に入れば、会社のチームワークが乱れたり、効率が悪くなったりするから、採用を見送るのよね。

 

容姿が良くない人よりも良い人の方が、人から好かれ、その会社に利益をもたらすかもしれない。会社内が円滑に回るかもしれない。

 

能力の低い人は入学や採用を見送られたり、仲間にいたらその人の評価下げたりできるのに、容姿が醜く生理的に受け付けない人がいる場合は、周りの人が我慢しなければならないのおかしいんじゃないかしら🙄

 

さて、この疑問に答えられる人はいるかしら🤔。

 

能力の有無は区別しても良いが、容姿の良し悪しは区別してはならない、いや、容姿の良し悪しで人を判断すると差別となる理由をキチンと理屈で説明できる人はいるのかしら🤔。

 

 

 

差別って「他よりも不当に低く取り扱うこと」なのよね。この「不当に」がポイントだと思う☝️😔。

 

不当とは、道理に外れ妥当ではないことを言う。

 

 

 

やっと出てきたわ~。

「理」と言う言葉😄。これよこれ。これが今回の疑問を解くキーワードだと私は考える。

 

道理とは、物事の正しく、人として行うべき正しい筋道のことよ。

 

「理」とは、人として行うべき正しさであり、それは理性だと考えるのよ🙄。「人として」がポイント。感情を抑え、理性的に考えることよ。

 

容姿の良し悪しを判断するのは、その人個々の感情よ。そこには理性はない。最近では、コンピューターで分析した美しい顔とか容姿なんてあるけれど、「美しい」と感じるんだから、やはり、それは理性ではなく感情だ。コンピューターが判断しても、それを美しいとか醜いと人が判断したら、それは人の感情にはかわりはない。

 

容姿で人の良し悪しを判断するのは理性的ではないとなる。

 

理性的な判断でないものは、道理に反するんだから不当である。

 

従って容姿で人の良し悪しを判断するのは不当である。

 

試験で入学させるかや就職させるかを決めるのは、客観的な試験で能力や学力の有無を見ているのだから、道理に反せず妥当と言うことか🤔。

 

そうよね~🙄。

つまり、能力の有無は客観的に測ることができるが、容姿の優劣は主観的であることが違いか🤔。

 

「容姿で人を判断してはいけない」のは、人が人であるがゆえの理性が求められているからなのだろう🤔。

 

えっ❗️❓

あなたはどうかって❓❗️😌。

 

私は人を見かけで扱いを変えるほど自分の容姿に自信はないわ👋😓。だから、人を見かけで判断しないように努めているわ😅。

 

そう☝️😔

どうしても生理的に受け付けない人がいても、キチンと中身で判断するように「努めること」が大切なんだろうなぁ🤔。

 

結論は、容姿も中身も大切であるということね😎