新つれづれなるままに歴史を語る「日本の近現代史」敗戦の原因を考える~その3~
【前回のお話】
前回は、日本が軍国主義に傾いた原因となった「統帥権の干犯」について説明したわ。
統帥権とは軍隊を動かす、神聖にして侵すことができない天皇の大権。
そして、事実上統帥権を行使する軍部が、内閣のしたことに対して「統帥権の干犯である」と難癖をつけたのが「統帥権の干犯問題」だ。
詳しくはこちら👋😄
さて、前回の最後に思わせ振りなことを書いたわ😅。
「統帥権の干犯」は、魔法の杖。もともと軍隊内部の勉強会で、「統帥権の干犯」という言葉が使われていただけだそうだ。
それを政治問題化した人がいる。超有名な人よ。
世間の評価は「立派で悲劇の人」
しかし、私の評価は戦犯とは言わないが、党利党略のために統帥権の干犯を政治問題化させ軍国主義台頭に協力したというものよ。
その人の名前は・・・。
もう、そんなこと知っているよ~という人も、そう焦らずにお話を聞いてね😉✨。
【③浜口雄幸内閣のロンドン海軍軍縮条約調印をめぐる政治問題と憲政の神様】
この話を書こうとしたけれど、大正デモクラシーの話になっちゃった🙇。浜口雄幸内閣のロンドン海軍軍縮条約調印をめぐる政治問題について話は次回以降になるわ。
憲政の神様について話すのなら、大正デモクラシーを理解しないとと思って書いていたら、長くなってしまったのよ😅。
この「つれづれなるままに歴史を語る」は、読者さんに説明している形をとっているが、結局は自分の知識を整理し、自分自身に説明しているのよね😄。
さて🤔
憲政の神様と言われる人がいる。大正デモクラシーの主役よ。それは尾崎行雄と犬養毅。
いや、デモクラシーの主役は人民か🤔。主要な人物と言えば良いかしらね。
(1)大正デモクラシーとは
デモクラシーって「民主主義」のことよ☝️😄。
大正時代に民主主義が日本にあったのよ。大日本帝国憲法と聞くと、民主主義的ではない憲法というイメージがあるけれど、解釈の仕方次第で民主主義的なものにもなったのよ。
すごいでしょ😆。
私はすごいと思う😄。
だからといって、大日本帝国憲法を賛美したり、大日本帝国憲法に戻せなんて言わないわよ。軍国主義的な憲法というイメージがある人にとっては、解釈次第で、大日本帝国憲法が民主主義になるのがすごいでしょってことよ😉✨
大日本帝国憲法って、解釈の仕方次第では民主主義にも振れるし、軍国主義にも振れる。これは憲法としては大きな欠点で、なぜそんな欠点があったのか、その理由を語るのも面白いんだけれど、それは別の機会に譲るわね。
大正時代は大日本帝国憲法の解釈が「民主主義」に傾いた時代で、昭和の始め(戦前)は「軍国主義」に揺れた時代だと考えればしっくりするわ😉✨。
さて、大日本帝国憲法の解釈を民主主義に振らせたすごい人物は、吉野作造よ。憲法学者ね。
実は当時の日本を「民主主義の国」にしようとしたら、国体を変えるということで犯罪になっちゃうわよ~😓。だって日本は「国『民』に『主』権がある国」じゃないんだもの。天皇に主権がある国なのよ。
主権とは、ざっくりというと「最高で最終的な政治上の権威と決定権」なのよ。それが天皇にあるとしたのが、大日本帝国憲法。
だから、当時の日本が民主主義の国だと言うのは違憲なのよね。
吉野作造は「民主主義」なんて口が裂けても言えなかった。そこで彼は「民本主義」を唱えた。
民主主義と民本主義の違い。
民主主義は「主権は国民にある」とする。
民本主義は「主権が誰にあるかは問わない」とする。
民本主義は主権の所在を曖昧にしたのね🤔。民衆の意思に基づく政党や議会による政治という民主主義の本来の意味を残しつつ、天皇主権と矛盾が起こらないようにしたのよね☝️😄。
それに加えて、天皇機関説も、大正デモクラシーを理解する上では大切なのよ。
天皇機関説とは、憲法学者美濃部達吉らが唱えた憲法学説だよ。
統治権は国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣や他の機関に補佐されながら統治権を行使するとした。
立憲君主制をとるなら当然の解釈よね🙄。
これに対して、「天皇は天皇のために統治権を行使する」と天皇主権説を唱えた政府御用学者は上杉慎吉。これも日本を軍国主義にする考えよ😔。
大正時代の日本はデモクラシーの世であった。そして政治は一部の者が行うのではなく、「憲政の常道」で行うものになっていった。
憲政の常道とは
「天皇のは衆議院第一党の政党の党首を内閣総理大臣にする。そしてその政党の党員を中心にして組閣する。」
ということだ。
そして衆議院は国民の意思を反映できるように「普通選挙」にしようとした。
普通選挙とは、納税額による制限がない選挙のことよ。
政治って一部の特権階級が独り占めしたがるものなのよ👋😄。
政治とは、話し合いでルールを作って利害関係を調整し、社会の意思決定を行い実行していくものだ。政治がない世界は、弱肉強食の世界。弱者も生きていけるように政治が行われるのだが、人間の世界は元々強い者が生き残る世界なのだから、政治が行われても、一部の力があるものに有利な政治を行おうとする。
明治以降で言えば
藩閥政治は薩摩藩(鹿児島県)や長州藩(山口県)など、明治維新で功績をあげた一部の地域出身者で行う政治である。自由民権運動で藩閥政治を倒そうとした。自由民権運動とは、ざっくりと言うと「国会開設」が目的の運動よ。
自由民権運動をする者たちは、
「明治の始めの『五ヵ条の御誓文』で今上天皇陛下が『広く会議を興して万機公論に決すべし』と、皇祖神にお近いになった。みんなで会議をして話し合う政治を行うとお約束なさったのだ。天皇陛下のお誓いを無にするのか」
と言ったとか😅。
これは筋が通っている。
だから、嫌々ながら、藩閥政府は国会を開くことを認めた。
しかし、選挙権を持つ者は直接国税15円以上納める25歳以上の男子。この条件に当てはまるのは全人口の1.1%の富裕層よ😱。
まぁ、金持ちならば政府側に投票すると見込んだのね。しかし、結果は藩閥政治に反対する政党が圧勝した。
そこで今度は政府は「超然主義」という立場をとった。
これは、内閣は議会や政党の意思に制約されずに政策を実施すべきであるという考えよ😨。
今と違って内閣が、国民のためのものではなく、天皇の輔弼(補佐)するためのものだったから、こんな考えになるのよ。
そうそう。大日本帝国憲法には内閣の規定がないのよ😱。これも日本が軍国主義となる大きな要因の1つなのよ。
そして大正時代、25才以上の男子による普通選挙が実施された。納税制限が撤廃されたから、貧富の差がなく一人一票になった。しかし天皇を否定するような思想の人が議員にならないように「治安維持法」という思想を取り締まる法律も「普通選挙法」と合わせて制定した。
そこで日本初の普通選挙を実施したら、政府に戦慄が走った😨。労働農民党、日本労農党、社会民衆党、日本農民党が合わせて8議席得たのよ。
いや~、これは政府にとっては衝撃よ😨。