つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

「いじめ」から子どもを守るには🤔

特別支援学級の軽知的障害のある5年生が通常学級の複数児童からいじめられて不登校となり、転校した。2年生の頃からいじめられていた。学校はいじめと認めなかったが、父親の訴えを受けた市教委の指導後、事実関係を認めて謝罪した。

男児は特定の教科を通常学級で学ぶ「交流学級」で2年生ときに、複数児童から「キモい」と言われた。3年生では顔をつねられたり上履きを隠されたりし、4年生では上履きを水でぬらされた。5年生では理科の授業中に実験材料のマメを食べるよう迫られた。

いじめで不登校 障害児が転校 (朝日新聞デジタル) - auヘッドライン - auサービスTOP

https://news.headlines.auone.jp/stories/domestic/social/13075835?genreid=4&subgenreid=12&articleid=13075835&cpid=10130000&rf=pass_search

さて、こういうことが起こると、いつも、私が考えることがある。それは、どちらが障害者なのかと🤔。

 

厚労省は「知的障害」を以下のように定義付けている。

知的障害は、医学領域の精神遅滞と同じものを指し「知的発達の障害」を表す。 全般的な知的機能が同年齢の子どもと比べて明らかに遅滞し、 適応機能の明らかな制限が、18歳未満に生じると定義される。

知的能力とは知的活動を行う能力(思考能力)のことである。適応能力とは社会生活を送る上で能力で、ルールを守り、自分の役割を果たし、他人と良好な関係を築く能力である。

さて、これを前提に考えると、精神疾患を抱えているのは、このような事件においては(私はいじめは事件であるという考え)、いじめられた知的障害者とされている児童より、いじめた健常児たちの方ではないかと考えてしまうのよ🤔。

 

知的能力に関して。

知的能力(思考能力)って、具体的には、読んだり書いたり計算したりする能力や書き、物事を理解し、考え、判断する能力のことよね🙄。この加害児童達は、読んだり書いたり計算したりする能力は、軽度知的障害児よりは高いものを持っているのだろう🤔。しかし、物事を理解し、考え、判断する能力はどうなのだろうか🙄。

 

「①自分より劣った者がいることを理解した。②気持ち悪いと感じ、そして、③いじめても良いと判断し、④行動に移した。」

 

さて、この中で問題となるのはどこだろう🤔。

 

自分より能力が劣る者がいる。

いや、何を以て能力とするのかは難しいが、軽度知的障害を抱えているということは、少なくとも「読み書き計算」と言ったいわゆる普通科の科目での理解は、加害児童よりも劣っているのであろう。

 

動物の世界では、自分より弱い自分の子どもや仲間の子どもは守ろうとする。しかし、自分と対等な関係になりうるものであれば、いじめ抜く。暴力を加え、死に至らしめることもある。弱肉強食の世界だ。これは動物の本能であろうか🙄。

 

しかし、人間と他の動物との大きな違いは「理性」があることである。このいじめる者は理性が欠けていると言わざるを得ない。「いじめるを行うものは人間ではない」と定義付けてもよいのかもしれない🤔。これが言い過ぎなら、「人間としての理性が欠けている」とは言えるだろう。

 

えっ❗️

苛められる方にも問題があると考えるって❗️😱

 

百歩譲って、被害者側に何かしらの問題があったとしよう☝️😔。

 

では、その問題を「いじめ」という手段を使って解決してと良いという根拠を示せるのか。それは、示すことはできないよ。だって感情の問題だもの。感情を根拠にして、苛めても良いというのなら、それは無法地帯である。

 

「苛められる側に問題があれば苛めても良い」という人は、「自分も苛められる問題があれば苛められても良い」ということだ。そして、その問題は感情で判断してよい。ということは、私が加害児童に対して「気持ち悪い奴」と思えば、苛め抜いて良いんだな😒。加害児童の保護者は文句は言わないんだな😡。いや、加害児童も親も文句を言うだろう🤔。

 

ということは、このいじめ問題にも加害側には自分は苛めるが、苛められることはないという「自分は特別な存在である」という思考があるはずだ。この「自分は特別な存在である」という考えが、誤った方向に進んだ結果については、こちらのブログで言及したよ👋😔


生きる意味 - つれづれなるままに

 

ということは、いじめをした者に、人間としての心の障害があることになると私は考えてしまうのよ🤔。そして、それを野放しにしていることが問題である😒。

 

そこで、さっきの問いに戻ろう。

「①自分より劣った者がいることを理解した。②気持ち悪いと感じ、そして、③いじめても良いと判断し、④行動に移した。」

 

この中のどこに問題があるのか?

 

問題の程度は大小あるけれど、①~④のどれにも問題はあるわ。その程度は

①<②<③=④

だと考える🤔。

 

①「自分より劣った者がいることを理解した」について

何をもって「劣る」のか。「障害」は劣ること❓🤔。「『障害者』という言い方が問題である」という意見もある。障害物は「周りに障害となる物」であるならば、障害者は「周りに障害となる者」という解釈も成り立つからだ。つまり「障害者」という言葉には「周りに迷惑な者」という解釈も成り立つからだ。

 

周りに迷惑な者と言うことならば歩きスマホをする人

妊婦が座ろうとした席を「何か文句あるか」と言って座った爺さん

エスカレーターで「早く行け」と急かすあんちゃん

満員電車で荷物を横の席に置くおばちゃん

歩道で自転車のベルを鳴らし歩行者をどかす者

生活保護受給者を茶化したものを広報紙にのせる役人

母子を轢き殺しておきながら、車の性能のせいにする元高級官僚

文書をシュレッダーしたのは「障害者だった」とコメントする一国の宰相

税金で桜の花見をする権力者

 

知的障害者とされる者が、このように周りに迷惑をかけているだろうか❓🤔。配慮や補助は必要だ。しかし配慮や補助は迷惑ではない。現在、障害者とされる人たちは、障害者ではなく「合理的配慮を必要とする人」である。

 

ただそれを現代の多くの人々の常識に当てはめると「劣っている」となるのだろう。だから、「自分より劣った者がいることを理解した」ことは仕方がないとしておこう。

 

②それを「気持ち悪い」と感じた(かもしれない)。

これは理解ではなく、感情であろう。「気持ち悪い」という感情が湧くのは仕方がない。私も、ここには書けない感情がたくさんある。ここに書けない感情が湧くことはいけないことだ。しかし、湧くものは仕方がないのである。湧いてしまうのだから。

心は自由だ。精神は自由である。それが負の感情であろうと。だから、能力や容姿を見て、気持ち悪いという感情を持つことは許そう。「許そう」と何か上から目線でごめんなさい🙇。でも、負の感情を待つことは許されるべきものだ。私は、この「~すべき」も嫌いだ。しかし、ここでは使わせてもらった。

 

負の感情を制限しても良いのなら、正の感情を持つことも制限してもよいものとなる。この感情における正か負の基準は曖昧だし、人によって変わる。

 

ある政治家をある動物にたとえて揶揄したとしよう。笑いも起こり、政治の風刺は庶民の健全な心の表れでもある。私は正の感情だと考える。しかし、その政治家の支持者にとっては負の感情である。その政治家が権力を握ったとしよう。そうなるとその政治家に阿る者も出てくる。その政治家は他人の演説を野次るのに、自分を野次る者は拘束するようになるかもしれない。

 

ほら、感情を制限するのは怖いのよ😱。そして、今の日本のヤバさを実感していない人が多いのよね~。「まだ、大丈夫。今は大丈夫。」と思っているうちに、徐々に毒は広がっていく。

 

自分の理解が出来ない者を「気持ち悪い」と感じるのは許そうじゃないか😄。

 

③いじめても良いと判断する

問題はここなのよ。

「気持ち悪い」から「いじめてもよい」。このフレーズの構造は、「原因・理由」→「結果・行動」。

これは合理的な判断ではない。だって原因が「感情」だから。全て合理的な原因にしろとは言わない。「楽しい」から「やる」ことだってあろう。しかし苛めは他人に精神的にも肉体的にも危害を与えるものである。

 

④行動に移した。

「やって良い」と判断すれば、行動に移すだろう。

 

「いじめをする健常者は、健常者ではない。苛める者こそ「障害者」だ。周りの障害となる者だ。だから、障害物と同じように排除しても良い。」

 

と私が訴えたら、知的障害者をいじめた加害児童とその保護者は賛同するかしら🤔。いや、他の人達だって賛同しないわ。この意見に賛同した者は、いじめの加害者と変わりはない。

 

だから、言いたい。「いじめの加害者を更正させよ」と😔。

 

と、長々と、いじめの加害者の不当性を書き綴ったが、このいじめの諸悪の根元は、加害児童ではない。学校の対応が最も悪い。自分より弱いものを見たら食らいつき、殺して食べるのは動物の弱肉強食の本能だ。私にだって、その本能がないとは言えない。いや、あるだろう。それを抑えるのが理性であり、育んだ慈愛の心だ。性善説か性悪説か。生まれたての赤ちゃんに性善も性悪もない。ただ生きようとするだけだ。生きようとする中で、その環境によって、人間にとって善にもなれば、悪にもなる。

 

極端な例で言えば、生まれたての赤ちゃんが狼を母として育てられたとしよう。その子に、人間としての理性が育まれるか?🤔。私は育まれないと考える。人は理性を持つ能力があるが、その能力を育むのは環境である。

 

小学生は未熟だ。その未熟な子どもを教え導くのは周りの大人である。親であり、学校であれば教師だ。いじめに対して学校の対応が問題だ。学校の管理下で起きた事件である。

 

父親が何度も学校にいじめを訴えても、学校は動かず、その対応に業を煮やした父親が、校長室で机を叩いたそうだ。そしたら、学校側は警察を呼んだそうだ😱。父親の行為を「威圧行為」としたのだろう。いじめの対応はのらりくらり、被害に遭った可能性の高い子どもを持つ父親やその子には対応しない。そりゃ~、怒るだろう。怒った父親には、警察を呼ぶという犯罪者として扱いをした。

 

もし、私がこの父親であったら、駆けつけた警察官に、「うちの子はこの学校でいじめにあっている。これを犯罪として扱ってくれませんか」と言ったかもしれない。ここは父親には冷静でいてほしかった。

 

こんな経験がある。息子の学用品が学校でなくなる。妻は「○○君が盗んだ」と私に訴える。同様の声は他の保護者からも上がっている。学校で他の生徒が、その○○君に「盗んじゃダメだよ」と言ったら、先生が「そういうことを言うもんじゃない。」と言い、うちの息子も息子がなくしたことにされてしまった。それが、積もり積もって、かなりの額なのよ。教材、色鉛筆、絵の具、消しゴム…。そして、その○○君自身も知的に障害を抱えている。妻が先生に息子の物がなくなるのを訴えると、「不満なら、転校すればよい」と言うようなことを言い放った。私はこの対応にいたって、校長に直談判をした。

私「妻の訴えに対して、他の保護者や児童のいる前で転校を勧めたのですね。」

 

校長「そのようなことを言ったのは申し訳ございませんが、彼女に事情があるかもしれませんので。」

 

私「事情があれば言って良い言葉なのですね。」

 

校長「そういわけでは…。」

 

私「私もその場を見たわけではありませんが、妻は『息子の物が学校でなくなるのでどうにかしてほしい』といっただけだそうですよ。それに、教師が保護者に自分の意に沿わなければどこかに行けというのは、排除の考えで、いじめともなりますね。」

 

校長「いや、そういったわけでは…。」

 

私「うちの子は、上手な説明ができません。上手な説明ができないのをよいことに、息子が自分でなくしたことにしてはいませんか。」

 

校長「そんなことはありません。」

 

私「でしたら、息子の物が学校で頻繁になくなっているという事実があります。担当の先生がおっしゃる通り、息子が自分で物をなくした可能性があります。その可能性は認めましょう。しかし、『学校内で盗まれた』という可能性を落とす根拠を知りたいのですが。」

 

校長「…。」

 

私「そうですよね。これだけ頻繁にクラスで物がなくなるということが起きています。もしも、盗みが事実だったとして、その盗んだ子がどのように育とうと私の知ったことではありません。しかし、教育者としては如何なものなのですかね。盗みが事実なら、盗み癖がその子につきますよ。それを放っておかれるのですね…。」

こういうときに、妻も私も「○○くんが盗んだ」と個人名を出さなかったのは当然のことよ。安易に言ってはならないことだから。そして、後日…、ここは書かないことにしよう。

このあと、息子の学用品がなくなるということはなくなった。

 

私の息子の学校は、とても良い学校であった。大きなトラブルと言えるのは、この一件ぐらいしかない。覚えていないだけなのかもしれないが😅。しかし、6年も通えば、トラブルが起きるのは珍しいことではないと思うのよ。この担当の先生も、とても熱心な先生だった。気持ちも分かるのよ。自分が指導している生徒が盗みをしているなんて思いたくない気持ちも。

 

私の学校の校長先生は、保護者の訴えに真摯に耳を傾け、その後の対応と結果も良かった。一方で、このニュースとなった学校の教師は、教師としての矜持がなかったのであろう。

 

やはり子どもを守るのは、最後は保護者ということなのかなぁ🤔