つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

死は救いか

あることがあって、「死」について考えてみた。このあと私が語ることは、昔、どこかで誰かが話していることである可能性は高いが…。

 

父方の祖父母は私が生まれる前に亡くなっている。だから、当然、私に思い出はない。

 

しかし、母方の祖父母は私が小5のときと、中2のときに亡くなった。だから、母方の祖父母との思い出は沢山記憶に残っている。そこで考えることは、母方の祖父母は私の心の中で生きているのではないかということだ。

 

「死」には、本人の生命上の「死」と、その人と繋がりがあった人の心の中での「死」の2つがあるのではないかという考えに至った。「歴史」に残った人に関しては、人の心に生きるというよりも、遺影や業績が残っているだけのように思える。なぜなら、歴史に名を残した人との現実的な接点がないからだ。他人でも深い接点であれば心の中で生きるということもある。親族なら、1親等なら当然だけど、最大3親等かな🤔。

 

いや血縁じゃなく、やはり亡くなった人との関わりの深さなのかもしれない。人との関わりの深さを表す親等もあるのかもしれない🙄。

 

私の場合、実父と実母と実姉が亡くなれば、私の幼少期を知る者がいなくなる。妻子が亡くなれば、私と関わりが深い者がいなくなる。そして、私が死んだら、私は現実的にも人の心の中にも存在しなくなり、死んだことになるのかもしれない。

 

そう考えていき、たどり着いた考えは、「死は救いなのかもしれない」ということ。永遠の命を手にしたら、私を知らない人の中で生きることになり、また、生きることに疲れるかもしれない。

 

そこで「自死」の問題が浮かび上がる。「自死」は救いなのかと。

 

人間以外の生き物で、「自死」するものはいないという。ということは、生き物は「生きようとすること」が定めなのかもしれない。その定めに抗い、死を選ぶのは、人間の脳が発達したからか。

 

いじめを苦にして自死する。

 

いや~怖い。

 

死に損になることが多いのよ、このケースでは。生きている者が優先され、「いじめはなかった」ことにしようとする者が多いこと、多いこと。

 

「死んだら負け」という奴も出てくる。「いじめたら負け」という世の中にしなくてはいけないと私は考える。

 

この考えを皆さん納得するかな❓

 

納得した人は、結局「死んだら負けの世の中だ」と認めたことになる。だって、「~という世の中にしなくてはいけない」と言うことは、今はそういう世の中ではないということじゃない。少なくとも「いじめたら負け」という世の中ではないという現実を認識している。反転させると「いじめて自死させたもん勝ち」という世の中という認識である可能性が高い。いや、私は、「今の世の中はいじめたもの勝ち」の世の中だという認識よ。だって、いじめはいじめられた方がいじめがあったことを立証しなくてはいけないのよ。学校も教育委員会も、いじめはなかったとしようとするじゃない。そういえば、確か、いじめ自死裁判で、いじめは自死にいたった「エピソードの一つ」でしかないという判断をくだしたものがあったわ。

 

実は私も、中1~中2にかけて女子のボスに嫌われて、彼女から陰湿ないじめを受けていた。そのことに言及しているブログは、こちらよ。


思い出とインナーチャイルド190223② - つれづれなるままに

私は心が強かったのだろう。このいじめは切り抜けた😅。

 

チューがいじめを受けるかもしれないと思ったら、気が気でなくなる。それで死なんてものを選ばれたときには…。いじめられて自死することによって、死んだ者も浮かばれず、遺族も苦しむ。「死んだら負け」論には私は加わらないが、「いじめを苦にしての自死は救いではない」ことは確かなのかもしれない。だから、チューを学校に送るときに、私はチューに言って聞かせる。

「嬉しいことも、悲しいことも、良いことも、嫌なことも、苦しいことも、必ずパパには伝えるんだぞ。いいな。」

と。

 

彼は、嫌なことは言わないんだよなぁ。パパは嫌なことは言ってしまうタイプなの。だから、嫌なことがあっても乗りきれたのだろう。ブログの読者さんやツイッターのフォロワーさんなら、私がそんなタイプだと分かるよね。

 

「いじめられて、困ったら逃げろ。」戦うのなら逃げて戦え。いじめの証拠を残せ。

 

しかし、病気を苦にしての自死は…。難しい。ホント難しい。いじめによる苦しみなら、逃げる場所がある可能性が高い。しかし、病気による苦しみに逃げ場所はあるのか。いや、ないだろう。逃げ場がないのに生きろと言うのか。苦しめと言うのか。

 

一神教の信者なら、「神があなたをお作りになったから」とでも言うのだろう。私が粘土で作った人形は、造り主である私は壊す権利があるが、人形には自分を壊す権利はない。だから、神が土から作った人間は、造り主である神は人間を殺せるが、人間には自分を殺す権利はない。形而上の神を信仰しているのなら、この理屈は理解できる。しかし、私は、この宗教を信仰していない。

 

受験勉強で苦しんでいる。しかし、その先に合格の可能性があるという希望があるから苦しみを強いることも出きるし、自分から進んで苦しむ者もいる。しかし、病気で苦しんで、そのあと健康になる可能性があるのだろうか。それがあるのなら、苦しみを強いることも理解できるのかもしれない。

 

受験するもしないも自分の判断が入る。受験せざるを得なくても、受験しないという判断の余地は残されている。しかし、行き死にの場合は、死の判断の余地は残されていない。これは、やはりおかしいことなのか🙄。

 

チューが不治の病におかされたとしよう。

 

あぁ、彼が苦しんでいても、1分でも長くこの世にいてほしいという気持ちがある、

あぁ、少なくとも、他人(我が子)に苦しんでも生きてほしいと願う私は、病で苦しんでも自死を選んではいけないのだ。私の父も、病で苦しんでいたのに、私たちにその苦しんでいる姿も見せず、愚痴も言わなかった。彼が倒れるその日まで、その日、彼が倒れるとは思いもよらなかった。その日のうちに亡くなった。彼を見習わなくてはならない。

 

少なくとも、私には、「自分で選ぶ死は『救いではない』」ということを心に刻もう。