つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

つれづれなるままに国語を語る⑧190312

前回までのお話

①国語力の土台は語彙力である

②語彙力には言葉の数だけではなく、言い換える力も入る。

③語彙力をつける方法は、覚えた言葉を使ってみることである。

④論理とは論証の組み立てであり、思考の妥当性が保証されるものである。

⑤読解は客観的読解力が大切だ

⑥ジャンルの違いは、主張方法の違いである

⑦論理には飛躍が入る。

詳しくは下のブログをお読みください😄


つれづれなるままに国語を語る⑦190310② - つれづれなるままに

(1)国語力が大切な理由

私がこれほど国語力、中でも読解力にこだわるのは、人と人を繋げるのは読解力だから。国語力はコミュニケーション力の根幹だと考えている。

教科名も、「日本語」ではなくて「国語」なの。母国語で考えたり、思ったり、感じたりする力をつける教科だと私は考えるの🙄

 

金八先生風に👨‍🏫

「人をという字にぃ~、言を書いてぇ~、信じるとなるぅ~」

「その信じることを用いると信用となりぃ~、頼ると信頼となるんだぁ。」

「そして、信じることを通じ合うことが、通信となる。」😎

 

私の勝手な解釈だよ。念のため😁

 

(2)解釈と認知

「世界は言葉で埋め尽くされている」と言うが、「世界は自己の認知で変わる」とも言える。

卑近な例を挙げると

「冬の真夜中、主人公がふと窓の外を見ると、雪が振りだしていた。何かが聞こえる。子ネコのか細い鳴き声だ。窓の下を見ると、生まれてまだ1ヶ月も経たないような小さな子ネコが、段ボールの箱の中に入れられていた。」(自作)

さて、このときの主人公は子ネコに対して、どんな気持ちだと考えるか?

 

 

 

 

解答は、「分からない」が正解なのよ。なぜなら、ここに書かれたのは事実のみで、主人公の心情は書かれていないから。

 

でも、主人公は子ネコに「かわいそうだなぁ」と感じていたであろうと解釈するのは、コミュニケーション力という視点であれば、私は正解とする。

 

認知は解釈するまでのプロセスと捉える。

 

随筆や小説には情景描写というものがあり、景色の中に、登場人物の気持ちをもぐり込ませる。

嬉しい場面は晴れ、悲しい別れの場面は雨、不安なときは曇りという天候で気持ちを表す。ドラマを思い浮かべると、よく分かると思う。ほら、サスペンスのクライマックス。犯人を追い詰めるのは決まって、断崖絶壁、下には少し荒れた海が広がっているでしょう。あの情景描写は「緊張感」「切迫感」「(犯人の)絶望感」などを表していると考えられるの。

 

そう。ある事実が人の脳に入るということは、認知し、解釈が入ることでもあるの。それにはどうしても個人差がある。その原因は何か。それは脳の回路のクセにあり、そのクセを作る原因は、先天的なものと後天的なものがある。後天的なものは、その人のこれまでの体験が大きな影響を与える。

 

今回の例で語ると

主人公は子ネコを「かわいそう」と思ったと解釈せずに、「ザマーミロ」「何とも思っていないんじゃない」「死んじゃえ」と解釈するかもしれない。解釈した者と、とあるネコとの経験の中で、嫌なことがあった人は「かわいそう」という解釈をとらないかもしれない。それが認知のズレとなる。この認知のズレが多数の人が取る認知と大きくズレると、トラブルとなる。もしくは、大きな才能になるとも言える。多くの芸術家や発明家は、他の多くの人との事実の認知が大きくずれているのよ。だから、一概に認知のズレが悪いとは言えないんだけど、認知がズレて変な解釈をすると、人とのコミュニケーションにおいては問題となることがほとんど。犯罪者も認知のズレだし、歴史を見ると国を謝らせるのは認知のズレだ。

 

うん❓🙄

 

解釈と認知は違うかも🤔

認知をプロセスと考えれば、解釈はその結果。自分の解釈を理性で客観的に物事を捉える訓練をして、正しい解釈をすることが重要なのかも。会社での人間関係も、友人も、ご近所も、夫婦も、親子も、解釈ではなく、認知のズレを意識していないことがトラブルのもとだと私は考えるの🤔

 

国語の読解問題って、認知のズレをなおす訓練でもあるのかなぁ。

 

感想文であれば、これは主観的な解釈でも構わないと思うよ。認知が多少ずれていた方が、面白い感想文となる。

 

感想文を書くことと文章を読解することは、似て非なるものなのよ😄