つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

普通に拘らない190116②

工場では
生産工程に従って、ベルトコンベアで運ばれてきたものに手を加えていき、規格品が大量生産される。

 

学校では
カリキュラムをもとにシラバスを作り、そのシラバス通りに授業を受ければ「規格人」が大量生産される仕組みだ。ベルトコンベア式の教育と呼べる。

 

そこで学んでいる子どもの中には、精神を病む子がいて当然。工場なら機械の生産だが、学校は心を持つ子どもの教育だ。製品を作るのと同じようにされたらたまったものではない。これでは不登校も生まれるし、ストレス耐性のない子はいじめたりいじめられたり、社会不適合になったり、果ては自死にいたったりする。そういう教育の中で育った私だが、私の方が異常なのかと思ったりもする。まあ、制度が先か意識が先かという哲学的な話に及んでしまうが。

 

そういう大量規格品生産工場型教育を、普通科教育の教育方法に採用しているのが日本だと理解している。(普通科教育の厳密な定義は置いておく)。この「普通」という言葉のチョイスが良くない。普通とは広く通用する状態のこと。日本人は「普通」≒「みんな」ととらえ、普通でないと異常とらえる。没個性、みんな一緒でなければならないと思ってしまう。普通科教育を「普通の子が学ぶ教育」と誤解し、普通科にいないとダメだと親は判断する。普通科教育は「広く通用する科目」を教えるという意味であり、決して普通の子が受ける教育ではない。ここを親が誤解すると子どもに悲劇が生まれる。だって普通の子って、私はよく分からない🤷‍♂️

 

大学入試改革というが、結局は国や企業が求める人材育成が主目的で、子ども個々の幸せを求め教え育むという視点が欠けている。文科相の方針に従って、文系学部の入試に数学を取り入れることを早速取り入れたのが早稲田大学だということも興味深い。大学はいわゆるエリート教育であって、国や企業の求める人材を育成しても結構だが。それが義務教育にまで浸透していき、そういう国策に乗れない多数の子どもは劣等感を持ち行き続けるのではないかなぁ。そこが心配。

 

私の住む県内の私立校は、昔、自動車専門学校があり、洋裁学校があり、食物栄養の学校があり、スポーツに力を入れている学校もあって、多様だった。ほとんどが、平成に入って中学校を作り、進学色を強めた。確かに、ニーズがあり、経営的な判断も、資本主義の競争原理の中では大切だ。しかし、社会で自立した生活を営むまでの道が一本道に集約されてしまうことに生きづらさを持つ子どもは多い。社会に出る道は一本道ではない。民主主義は多様性の尊重なのに、教育は没個性になっている。

 

以上述べてきた私の考えの是非は、当然人それぞれだが、自分が、もしくは子どもが、または教え子が、現状に行き詰まったら、この考え方は有効だと考える。一言でいうと「普通に拘らない」が座右の銘

 

こういう考えになったのは
①高校時代の挫折
②教育法との出会い
③👦との出会い
かなぁf(^_^;

 

①と②がなく👦が生まれていたら・・・。
やっぱり👦との出会いが大きいよ(´▽`)
👩と👦に感謝だね(^人^)

 

最近、この年になって、私のしたい仕事は今の仕事ではないと思ってしまう、不惑之年をすでに越えたアラフィフなのよ( ̄▽ ̄;)

(私自身のフェイスブックより)