つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

子の成長したところに目を向ける

息子が通っている塾は、車で30分近くかかる。2才の頃から隔週で通い続けている。先生には10年指導をいただいている。

 

昨日の夜

👩「渋滞していたので、塾に遅刻しそうだったから、○ちゃんに塾に電話をかけてもらったの。そうしたら『いつもお世話になっています』だって😄」

 

 

👨「へぇ~、○○が電話をかけたのか」

 

 

👩「そうしたら、先生が誉めてくれて。しっかりしたねって😆」

 

 

👨「そうだね。貴女が色々と試させているからね✨」

 

 

 

うちの子が電話をかけて、塾の先生にキチンと説明できたという、端から見れば些細なこと。

 

 

 

それでも、私たち夫婦にとっては、とても嬉しい成長。息子と会ったら「塾の先生に電話をしたんだってなぁ」とだけ言ってやろう🍀

 

 

「子どもの成長に、些細なことなんてない!」というのが私の信条。

 

 

 

と語るということは、意識しないと「些細なこと」と見過ごす恐れがある。

 

 

 

昨日と違うあなたがいる。それを見届けるのも幸せの1つ。

 

 

 

子育てって責任重大😄

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あぁ、もう、そんなに遠く離れて歩けるようになったんだね。

 

 

 

~~~~~~~~~~

2019年1月26日のブログ

 

チューは小5だった。子どもの小さな成長を見逃さず、成長を讃える。それは塾で預かっている子どもに対しても同じ。

 

 

欠けていないところや伸びたところを目を向けて声をかければ、その子はもっと伸び伸びとした人生を送れるのになぁ。

 

高校説明会で「塾はいらない」とおっしゃるけれど

公立、私立どちらの進学高校も説明会で「入学したら塾はいらない」と先生が話していたと中3生の母親から面談で言われた。

 

 

 

まぁ、「学校が嘘を言っている」とは言えないので、「そのくらいの気持ちで指導していると言いたいんですよ」とフォローした。

 

 

 

でも、なぜ私が私の業界を目の敵にする公教育の高校の先生をフォローするんだろう❓️🤔

 

 

 

ってツイッターで呟いたの。文が乱れているのはご愛敬ということで、そのツイートがこちら👋😄

 

 

 

そしたらご覧のとおり「良いね」「リツイート」「引用リツイート」、「返信」がたくさん😅。プチBuzzり状態ね。

 

 

 

好意的な返信もあれば、批判の返信もあった。

 

 

 

もっとも印象的だったのは、学校の関係者らしき方のツイート。

 

 

 

私のツイートを引用して

学校が提示したことを全部出来る前提

とあった。

 

 

 

ふむぅ🤔。そんな前提はないんだけれどなぁ。でも、私は紳士だから😎

なるほど🤔

そういう解釈もできるのか😅

ツイッターは気付きを与えてくれる。

塾は学校や受験の補完であることが私の前提😅。

学校は補完はいらない、全て私たちがやると意気込んでいるのよね😁

と引用ツイートした。

 

 

 

そしたら

そうなんですよ笑

こっちが完全に吸収できると思っているので(実際できる人は学校だけでも合格しますし)

と返信があった。

 

 

 

あぁ、語るに落ちた😁。

でも、このツイートは、「うちに通えば塾はいらない」と豪語する教員の共通した考えだと考える🤔。何が「語るに落ちた」か分かるかしら❓️😁

 

 

 

「完全に吸収できる」と言っておきながら「実際できる人は学校だけでも合格できる」と言っている点。この矛盾、分かるかしら🤔。

 

 

 

「完全」と言っておきながら、「実際できる人は」と限定しているのよ😅。

 

 

 

でも私は紳士だからこのように返信した👋😄

 

 

 

このツイッタラーさんとの返信ツイートのやり取りだからそんなに良いねはつかないわ😅。この良いねはこのツイッタラーさんだから、理解してくれたのだろう。

 

 

 

塾が必要か否かは学校が決めることではない。生徒や保護者が決めること。

 

 

 

学校説明会ではその学校の良さをアピールするだけでよいのよね。塾が必要かどうかは保護者が判断する。

 

 

 

高校が生徒を朝から晩まで学校に拘束して勉強させる。これは生徒のためだけではなく、学校のためでもあるんだよね。「塾に行かせない」ために拘束する。学校のメンツのために。

 

 

 

それで生徒の学力が上がるんなら問題はない。いや、それで学力が上がる生徒もいるだろう。しかし、1学年400名の生徒がいれば、1位から400位までの生徒に対して同じ指導でよいわけがない😤。

 

 

 

少なくとも下4分の1の生徒、つまり下位100名の生徒は.、授業についていけていないだろう。

 

 

 

さて、この子たちが、個別指導の塾や家庭教師に補完してもらわずに、学校で完全にフォローできるのだろうか🤔。

 

 

 

できないだろう。

学校は集団授業が基本だ。

その集団授業から漏れたら、個々の指導となろう。さて、少なくとも100名からの生徒を個別に指導する教員はいるのかしら❓️🤔。

 

 

 

いるのなら良い。

しかし、いないだろう。

 

 

 

さっきのツイッタラーさんも書いていたわ。

「こっちが完全に吸収できると思っているので(実際できる人は学校だけでも合格しますし)」

 

 

 

思うのは勝手😔。

それが出来ているのかしら❓️。

 

 

 

少なくともこのツイッタラーさんは思っているだけで出来ていないと表明している。なぜなら「実際できる人は学校だけでも合格しますし」と言っているから。出来ない人は、彼女の頭の中には入っていない。全員できる人だと強弁するのなら別だが😅

 

 

 

説明会で「塾はいらない」と言いきれる教育者に、教育を語る資格はない。なぜなら、嘘をついているから。出来もしないことを出来ると言うのは嘘であろう。それにそう言っている高校の生徒でうちに通っている子はたくさんいるし。

 

 

 

それよりも憤るのはこっちの方ね😤。

 

 

 

塾はいらないと説明を受けて入学した。塾に行かずに必死に学校だけで勉強した。授業についていけない。そういう子をどうするのだろう🤔。

 

 

 

ある女子高生を個別指導で預かった。その子も高校の説明会で「塾はいらない」と説明を受けた。

 

 

 

しかし数学がどうしても分からず高1から約3年間、私の塾に通い続けた。数学の成績は何とかなって、指定校で上智に合格した。

 

 

 

大学では物理が必要なのに、高校の授業は全て終わらず、指定校推薦が決定したあと、個別と映像で物理を学んだ。学校のフォローはなかったそうだ😲。

 

 

 

塾要らずと説明する高校に入学したあと、成績がふるわず、浪人する子もいる。

 

 

 

自習室完備と言われて入学したが、上級生を優先して自習室を使えないと嘆く生徒を預かったこともある。

 

 

 

ある公立の進学校は県下No.1の県立進学校にしようとある策を打った。やり手を校長にした。彼が校長になったあと、入学者の入試の平均点が県下No.1の県立進学校を上回ったと宣伝した。

 

 

 

当時、私は本部にいた。偏差値データを取り寄せてみると、やはり県下No.1の県立進学校の方が断然高い😲。

 

 

 

ここからは憶測🤫。

部分点を甘くしたのであろう。

あくまでも憶測🤫。

理数科も作り、今や最難関県立進学校になった。

 

 

 

その高校が「うちの高校は塾要らず」と宣伝した。ニュースにもなった。廊下には机が並び、卒業生がボランティアで後輩を教えたり、教師が生徒につきっきりの姿が流れた。それ以外にも、これでもかと言わんばかりの指導が行われていた。

 

 

 

そのとき、私の塾には2人、その高校に通う生徒がいた。その生徒に聞くと「あれはやりすぎです。僕たちは利用していません。」と言った。2人とも早稲田の理工に進学した。

 

 

 

塾側も憤るようなことをしているだろう。

 

 

 

しかし、これが教育者のすることか?なりふり構わない悪徳業者だろう。

 

教育者が民間の塾屋と同じ土俵に立ってどうするのか💢。そりゃぁ、あなたたちには権威がある。根拠がなくても、あなたたちの発言は信用される。

 

 

 

しかし、塾屋には権威がない。根拠を示しても疑われる。

 

 

 

「うちに通えば塾はいらない」と言う教師は、公教育の威を借る詐欺師に等しい。

 

 

 

と言ったら誹謗中傷かしら🤔。

 

 

 

「塾講師が 『志望校はどこか』と 両親に聞くのは、 詐欺の手口と同じである」なんて言っても問題がないんだから、大丈夫か。私もこれも「詐欺師である」とは断定していないから😁。

 

 

 

ホント、塾って目の敵にされるのね。弱い立場で言い返せないから😅。

 

 

 

とね、私は商売人には向いていない。塾屋も商売人よ。

 

 

 

だって商人と屏風は直ぐには立たぬと言うじゃない😅

 

 

 

(追伸)分かったことは、ブログもツイッターも書きなぐりだから、誤字脱字が多いことよ😁

因果関係がない存在もある~宇宙って神秘よね💕~

そんなに驚くことではないと思うわ🤔。宇宙には始まりも終わりもないってね😅。


「宇宙には始まりなどなかった」との指摘、ビッグバンの前から宇宙は無限に続いていたという新説とは? - GIGAZINE

 

 

 

こういう話が出た後に、「俺もそう思っていたんだ」とか「俺は気づいていたけれどね」という奴はとてもイタい奴よ😅。それに思っていたり気づいていただけで、それを証明するほどの頭もないのよね。

 

 

 

でも、このように言っていたことは載せておくわ😎。

この「終わりが必ずあると考える」こと自体、人間の脳の範囲内なんじゃないかなぁ🙄。きっと人智を越えるところに宇宙があるのよ。宇宙への挑戦が、現代版の神への挑戦なのかもしれないわ😅。

全てに原因と結果があると言われる。私が今ここに存在することにも原因がある。その原因の原因の原因…、をたどっていくと、ビッグバンにたどり着く。では、ビッグバンの原因は❓。それは理性ではたどり着かない世界。

 

 

 

昔、宗教と哲学の違いについて興味があり、本屋で本を探していたら、トマス・アクィナスと出会った。

 

 

 

出会ったなんてカッコいい言葉を使ったが、たまたま手に取った本にトマス・アクィナスが出ていたの😅。

 

 

 

トマス・アクィナスは中世イタリアの神学者よ。

 

 

 

「すべてのものには原因があり、その原因の原因、その原因の原因の原因というように原因を突き詰めていくと、 第一の原因、他に依存しない原因、 必然的存在があるはずだ。それは神だ。」 と彼は考えた。

 

 

 

科学で証明しなくても「必然的存在」を明らかにしていたのよね🤔。それも700年も前に😆。

 

 

 

いや、トマス・アクィナスの「第一原因」という考えは、彼のオリジナルではない。 アリストテレスの考えた「全ての運動の根本原因」という着想を受け継いだのよね。

 

 

 

アリストテレスは、今から2400年前の人よ😲。2400年前に、「必然的存在」なるものを、私のような凡人にも分かりやすく説明していた。

 

 

 

宇宙論も、これに似ている🤔。

 

 

 

宇宙の起源をビックバンだとしたら、そのビックバンを起こした原因があることになる。虚数の時間だの何だのかんだの考えても、その世界を作った原因が必要になる。

 

 

 

「ないもの」を「ある」と考えるから、無理が生じるのよね。

 

 

 

だけれど、ないものの証明って難しいのよね🤔。

 

 

 

もしも宇宙の始まりがないことが正しかったとしても、「始まりがある」と考えてきたこれまでの科学の歩みは無駄ではない。その科学の歩みは、現代人に多大な恩恵を与えている。

 

 

物理模型を作って理論を予言したり、観測データによって検証したりして統計学の土台を作っている。確率や量子論を発展させた。

 

 

 

思考するって、結果が正しくても間違っていても、そのプロセスがとても大切なことだと私は考えるのよ🤔。

 

 

 

「始まりがあり終わりがある」って、ホント人間的な思考だなぁって思うのよ。

 

 

 

宇宙が存在する原因はない。私にはしっくりする😔

 

 

2択に狭めず、選択肢を増やそう

目の前に2つの道がある。

どちらを選ぼうか迷っている人がいる。さて、その人にどんなアドバイスをするか🙄。

 

 

 

もっと具体的に考えようよ。

①大学に進学するか就職するか迷っている青年がいる。保護者はどちらの道を選んでも悔いがないようにと言っている。さて、どんなアドバイスをするか🤔。

 

 

 

あと3つ考えてみよう。

②結婚するのはAさんにしようかBさんにしようか迷っている女性がいる。どちらも一長一短がある。さて、どんなアドバイスをするか😔。

 

 

 

③「Aの商品にしますか、それともBの商品にしますか。」と店員に聞かれたら、自分ならどんな判断をするか😅。

 

 

 

④自分がA党に1票いれようかB党に1票いれようか迷っている。そのとき、どうするか🤔。

 

 

 

「2択を迫られたときは、2択を前提にしない」のが基本だと考えるのよ☝️😁。もう1つの道を探してみる。

 

 

 

なぜか。

それは、その前提が間違っているかもしれないから。

 

 

 

安易に2択にはしない。

 

 

 

これは交渉ごとでも人生の選択でも同じである。それに前提を二択に持っていくのは、詐欺をする際の基本よ😅。その他の選択肢を隠してしまうのよ😱

 

 

 

いや、すべてがと言うわけではないわよ。でも、前提を疑うって詐欺に合わない方法の1つだと私は考える。

 

 

 

①の場合

「浪人する」という選択肢もある。許されるなら、長い一生の内の1年間、勉強しながら将来を考える時間があって良い。

 

 

 

②の場合

「結婚しない」という判断もあり得る。迷って誰かに相談して決めたら、相手に何か不満があって後悔した場合、他人のせいにする可能性がある。

 

 

 

結婚相手に関して相談する人は、意中の人が決まっていて背中を押してもらいたいか、自分の恋愛を自慢したいだけであるという偏見を私は持っている😎。

 

 

 

③の場合

「買わない」

「Cの商品を見せてもらう」

 

 

 

店員が勧める商品は、保留するに限る😄。だってお店の都合で勧めることが結構あるから。

 

 

 

④の場合

どちらも選ばずC党を選択肢にいれる。

 

 

 

私の場合、AとBで迷った場合は、その政党が与党と野党だったら、野党に入れる。どちらも野党だったらポスターの写真の顔が笑っていない方に入れる😁。あくまでも迷った場合よ。投票に関して「棄権する」という選択はない。

アクセス数急減の原因は❓️😱~ツイッター再開~

どっひゃ~😱。

10月に入って、ブログのアクセス数が激減しているわ😱😱😱。

 

 

つれづれなるままに書いている素人ブロガーじゃ仕方がないんだけれど、この急なアクセス数の下がり具合の原因は何かしら🤔。

 

 

昨年の10月にバズって以来、1ヶ月のアクセス数が3000を下回ることがなくなった。だから「脱ビギナーブロガー」だと思っていい気になっていたわ😅。

 

 

このままだと、今月は3000アクセスを切りそう(10月10日時点)😑。今日は22時で54アクセスとなってしまった。

 

 

でも、これが実力じゃないかなぁ🤔。面白いことやお得な情報を書いているわけでもないしなぁ。

 

 

書きなぐるだけのブロガーの限界だろう😅。

 

 

あとね。こうも思うのよ🤔。

 

 

書くこと以外、何の努力もせずに、1ヶ月3000アクセスを越えて、5000アクセスに迫ったのは、緊急事態宣言のおかげだったのかもしれない🙄。今年は1月から9月が終わるまで、緊急事態宣言とまん延防止重点措置の連続だった。みんなやることがなくて、ネットで気分を紛らわし、そのおこぼれを私はもらっていたのかもしれない。

 

 

コロナ感染者数が激減し、緊急事態線が解除され、プログにアクセスする人の数も減ったのかもしれない。2019年の1月からブログを始め、アクセス数が伸びてきたのは2020年の7月頃。その年の10月と今年の2月にバズった。

 

 

コロナ禍がもっともひどい今年アクセス数が1ヶ月5000になった。そして、コロナ感染者数が激減し、緊急事態宣言が解除されるとともに、アクセス数も激減した🤔。

 

 

他の方々もアクセス数は減少傾向なのかしら🙄。

 

 

もしもコロナが収束に向かうにつれて、私のブログのアクセス数が減るのであれば、それは良い傾向なのかもしれない。

 

 

と、自分の努力不足を棚にあげて、アクセス数の激減の言い訳をしてみたよ😎。

 

でも、もう少しアクセス数を増やしたい。いや、増えなくても良いから、減るのを防ぎたい。

 

 

そう思って手を出したのがツイッター。ツイッターを2年ぶりに再開した😅。

 

 

2年前までツイッターをしていた。ツイ廃と言われるほどツイートしていた。フォロワーを増やすために、誰彼かまわず話しかけ、フォローしていた。

 

その結果、TLには右寄り思考の人も左寄り思考の人も私のフォロワーとなった。それはそれで楽しかったんだけれど、疲れちゃったのは否めないわ😑。

 

 

だって水と油の右翼と左翼、政権賛成と反対の意見を日々TLで見るのよ😅。

 

ちょっと右寄りの発言をすれば左寄りの人に噛みつかれ、左寄りの発言をすれば右寄りの人に反論される。

 

 

今回はフォローするのもされるのも「教育関係者」に絞ったの。いや教育関係者に絞ったというか、政治に対する発言が多い方のフォローをやめた。そうしたら、居心地の良いTLになったわ😄。

 

 

10/22(金)にツイッターを初めて3日目でよいねを17個もいただけた。フォローが50人を越えた。

 

 

 

2年前、ツイッターのフォローは300人寂いたかしら。そのうち、覚えている名前は数人。特に親交の深かった関西の塾長を探し当て、フォローした。すぐに返信が来た。

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SNSでの繋がりでも、お互いに印象に残った出会いだったんだなぁって思ったのよ。

 

 

 

ツイッターから離れて2年。ツイッターに新機能が導入されたことを知った。

 

 

 

スペースって言うんだって😲。音声で交流が出来るそうだ。私の解釈だと「無会員制Clubhouse」かしらね🤔。

 

 

 

リアルな会話での交流は、内向的思考タイプの私にはちょっとだけハードルが高い。

 

 

 

でも、あんなに周知されたTwitter社という企業でも、新たな分野を開発していることを知って、なんだか身が引き締まるような感じがしたのよね🙄。うまい表現が出来ないけれど。

 

 

 

はてなブログで音声で交流する機能がついたら流行るかしら?🙄。

 

 

 

ツイッターはチャット型交流ツールだから、おしゃべりな人が多いと思うのよ。だから、音声型交流ツールも流行るだろう。

 

 

 

ブログはスピーチ型交流ツールだから、おしゃべりというよりも主張を言い切りたい人が多いと思うのよ。だから、音声型交流ツールは流行らない可能性が高いかも🤔。

 

 

 

あくまでも私の主観だが、ツイッターとブログを両立させているは人は少ないと思う。例えば、毎日1000文字以上のブログを更新している人で、ツイッターで毎日数十ツイートしている人は稀だと思う。

 

 

 

2年前の私は両立させている「ツイ廃」「ブロ廃」に加えて、フェイスブックも毎日更新していたが。こんな表現欲求の塊は稀少種よね😎。

 

 

 

そして、何よりも嬉しいことは、「待っていましたよ」と言われたこと。そして、

とまで言われたこと。

 

 

 

私の人生で、こんなことはあまりなかった。いや、ある人の方が少ないかも😄。

 

 

 

人は居場所と繋がりを求めている。リアルな世界でもネットの世界でも繋がりと居場所が大切なのだろう。

 

 

 

しかしネット依存には注意しなくてはならないなぁ🤔。

 

 

 

ちなみに、今月のアクセス数は、ギリギリ3000にいきそうよ😄

親心

いつの日か
キミは
巣から飛び立つ

 

 

青空を
希望で満たし
羽をひろげて
キミは
巣から飛び立つ

 

 

青空は
雨雲で覆われて
雷が鳴ることも
台風がくることもある

 

 

親鳥としての心配は
キミの個性が
障害となること

素直な心だけでは
大空で生きていけないということ

 

 

普通に生んでやれなかったことを

悔やむことも何度かあった

 

 

でもね
「普通はない」と気付いたときに
いや気づかせてもらったときに
悔やみがなくなり
君で良かったと思えた

 

 

いづれ飛び立つ日が来るまで
明日の幸せ求めずに
今の幸せ噛み締めて
明日の幸せに繋げていこう

 

 

近い将来
「私のもとを離れたい」と言ったら
私は笑顔で両手を広げるよ

羽ばたくキミをながめながら

心で「また帰っておいで」と言いうだろう

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~~~~~~~~~

 

これは、ブログを書き始めて間もない2019年1月27日に書いたブログよ😄。

 

子育てに正解はないわ。

 

だから、親は自分の信念を信じて自分の子どもを育てるしかないと思う。

 

 

~~~~~~~~~

2019年1月27日のブログ。

時が経つのがはやいなぁ😔

ここが本当に夢の国😱

夢の国はお金がかかる。

 

 

入国するのに入国料が発生する。

 

 

夢の国に入ると、夢の国の住人のキャラクターグッズを売るショップで溢れている。

 

 

割高な食べ物と飲み物。

 

 

夢の国の外から食べ物や飲み物を持ち込むのは禁じられている。

 

 

楽しもうとアトラクションを利用としたら、2時間待ち。

 

 

これが夢の国のなのかしら🤔。

 

 

銭ゲバの国じゃないかしら🙄。

 

 

入国者数が過多なのに、次から次へと入国させる。

 

 

入国する人には罪はないし、夢の国にも罪はないが、「夢の国」と言われているのが疑問なのよね🤔。

 

 

「資本主義の権化の国」とすればしっくりとするんだけれど😅。

 

 

夢の国の住人は、安い賃金なのに笑顔を絶やさず働いている。夢の国の外からやってきた観光客を最上の接待でもてなす。その笑顔、心からのものですか❓️

 

 

いや~、人で溢れ、アトラクションを利用するのに何時間も待たされ、物価が高騰している国に観光に行くんだろう❓️🤔。

 

 

この夢の国がキャバクラだったら流行るのかしら🙄。

 

 

入場料6000円

女の子がテーブルに来るまで2時間待ち。話せる時間は3分間。待たされている間に、キャバ嬢のキャラクターグッズの販売がある。

 

 

飲食はべらぼうに高い。その女の子がスーパーアイドルだったら流行るかも😅。

 

入国者は夢のような楽しさを求めているが、それと同時にMっ気が強いんじゃないかしらね。

 

 

だって夢から覚めて夢の国を後にして帰宅している人の顔を見ていると、みんな疲れきっている。

 

 

えっ、どこのことだって。

それは私の夢の中の国よ😎。

 

俺はまだ本気を出していないだけ😎~何を読まされているんだろうと思うわよ、きっと😅~

バラエティー番組を見ていたら、超有名なアイドルグループのメンバーが3人で出ていた。

 

 

そのうちの1人が、私の知っている珍しい名前だった。

 

 

昔、私が担当していた生徒と同じ名前だと思って、Wikipediaで調べたら、ほぼその子だろう。

 

出身が私と同じ市であった😄。

 

 

あんまり私に懐かなかった子だった。というか、私が塾長で、クラス担当ではなかったからなぁ。

 

 

あぁ、眩しい。彼女の人生はこれからだ。

 

 

その点、私の人生は、可もなく不可もなく、いや、家庭的には可であるが、会社的には不可だ。

 

 

何歳になってもやりたいことをやるのが正しいとされる。

 

 

自分が詰んだ会社をやめて、塾を開きたいとも思う。いや、それよりも臨床心理士の資格を取って、スクールカウンセラーになりたいとも思う。

 

 

しかし、そのために、私はだらけ過ぎている。何も積み上げてこなかったし、その勇気もない。

 

 

規則正しい生活を送れていない。惰性で生きている😣。

 

 

何事も上を見すぎるのは苦しいわよね🤔。

 

 

2つ担当している個別指導の教室で、私が常駐している教室は、夏期講習生が全員入塾してくれた。しかし、運営者に任せている方はの入塾率は極端に低かった。

 

 

その原因は運営者が悪いのではなく、集団授業を強く希望し、夏だけ個別を受けるという生徒ばかりだったのよ。

 

 

まぁ、入塾しそうなところまでこぎ着けたが、集団授業ニーズが強い保護者に「個別が良い」と言いきれなかった。なぜなら、私がその教室に常駐していないから😣。

 

 

そういう生徒も講習会だけ受け入れるのも、教室の収入が増えることにもなるから良いと思うが、会社としてはそうはならない。

 

 

講習会で来た生徒は入塾させないと評価されないし、入塾率が低すぎると、月イチの研修会に強制参加させられる😱。

 

 

だったら講習会のみ受講したいという生徒を受け付けず、入塾率を上げれば良いということになる。

 

 

それでご出世された方もいる😑。私はバカ正直だから、数値が出ないのよね😐️。

 

 

会社とは個々の事情は考えず、欠けたところばかり見るということの典型よね🤔。

 

 

不満があるが、そんなものよ、会社って。

 

 

会社内のルールを違反したって、良い結果を出せば問題はない。私はいつでもバカ正直に正攻法。腹が括れないとも言えるわけで、腹を括っていない分、強制参加させられた時間を辛抱すれば、あとは呑気に仕事ができると考えようかしらね😅。

 

 

今、塾生の保護者から感謝の言葉をいくつかいただいている。「7月に入塾して、先生の指導で、勉強に対する姿勢が変わりました」と面談で言われた。

 

 

偽善と言えば偽善よ😔。

塾で働いている者にとっては、保護者や生徒から感謝されても、会社の評価にはならないのよ。感謝が塾生に変わらなければ。意味がないのよ。

 

 

分かるかしら🤔。

 

 

言い換えると、塾生の感謝が外に広がり、新たな生徒の入塾に繋がらなければ、劣等の烙印を押される。担当している一方の教室の入塾率が100%でも、もう片方の教室の入塾率が低ければ、低能の烙印を押され、研修に駆り出される。

 

 

いや、それでも良いのよ👋😣。そういうものだから。

 

 

でも、ただ単に率を見て評価するなら、入塾の可能性の低い生徒は講習会を申し込ませなければ良いとなっちゃうわよね。

 

 

でも、そういうニーズもあるわけで。講習会のみを受ける講習リピーターがいる。そういうリピーターができちゃうと、塾長泣かせとなる。だって入塾率が落ちるんだもの😱。でも、それって変よね。

 

 

こんな経験が何度もある。

 

 

例えば小5~中2までずっと講習会のみを受け続け、中3になって入塾するとか。長期休みだけ、私の教室がある地域にある母親の実家で過ごすので、講習会のみ受け続けるとか。

 

 

今回のケースも、通常時も集団授業を受けたいと言われ、個別指導の塾で無理やり集団クラスを設定したのよ。せっかく来てくれたんだから受け入れる。講習生がいなかったし。

 

 

教室は個別仕様になっている。集団と言ってもたったの2名だ。これじゃ、集団授業を希望している家庭は入塾しないよ。だったら受け入れなければ良かったとなる。

 

 

しかし、満足してくれたと思う。まぁ、授業は私がやったんだから当然よね😎。と思っていないとやってられないわ😅

 

 

道を誤ったかもしれないと、この年齢になってつくづくと思う。

 

 

大学生のとき教育実習にいった先の私の教官は私を気に入ってくれて、「キミは塾よりも教員向きだよ」と言ってくれた。大人の世界よりも子どもと向き合う方に適性があると言ってくれた。

 

 

確かにそう思う。

 

 

しかし、教員は教員で大変よ。今、こんな愚痴を言うようじゃ、教員になっていたら、また違う愚痴を言っているだろう。

 

 

難関高校の劣等生で、一浪して、難関大学群の末席の大学に進学したんだから、会社でのこの結果も当然かしらね😅。

 

 

やはり、健全じゃないなぁ…、この心の状態は😥。

 

 

50才で、再出発するにはどうすれば良いかしらと悩むわ😣。いや、悩んでも仕方がないかも。

 

 

人脈なし、コネなし、友達なし、金なし、勇気なし。いや、この状態で脱サラしたら、それは勇敢ではなくて無謀だろう。

 

 

でもね、金がないと言っても、ローンもないのよ✌️😎。ホント、私は真っ白よ。

 

 

家あり、車あり、妻子あり、仕事もあって、休みもある。そして返済は一切ない。

 

 

そうか🤔。このぬるま湯から抜け出せないのか😅。ぬるま湯が私をダメにしたか🙄。これは他責か。ぬるま湯って気持ちが良いものね。温泉に行くと、温湯にずっと浸かっているのよ😁。

 

 

じゃぁ、今から熱湯か北極海に飛び込むか😤。それは自殺行為だろう😱。

 

 

男一匹だったら何とかなる。いや、まだ、その気概は少し残っている。家族を路頭に迷わせることはできない。


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晩酌が多くなった。カッコ良い男にはなれなかった。

 

 

0歳の時は世の中のことは何も分からなかった。

 

 

25歳の時は、世の中は自分中心に回っていた。25年後の自分はバラ色を想像していた。

 

 

今、そのバラ色を思い描いていた未来に来た。バラ色ではなかった。漆黒でもなかった。灰色にぼやけた世界だった。その灰色の世界の中での希望は家族だった。25年後の自分はいないと思う。

 

 

なぜ、生きているのだろう🤔。それは生きているからだ。これは答えにならない。しかし、生きていること自体が生きる理由なんじゃないかと、ふと思ったのよ🙄。

 

 

自分の人生に望みがなくなって、生きる理由を求めたら、生きることに理由はないと答えよう。

 

 

華やかな人生を送ろうとも、苦悩はある。

 

 

病になっても、認知症になっても、大怪我をしても、浮浪者になっても、生きることに理由はない。

 

 

自分の今の境遇は、幸せの範疇に入るだろう。

 

 

不幸ではない。

 

 

だから、私が今の自分を不幸だと嘆くのは、無い物ねだりであり、世間知らずだ。お子ちゃまだ。

 

 

腹黒なカラスの親子に誘われて、かごの外に飛び立ったかごの中の小鳥と五十歩よね。そんな話はこちら👋😅。

 

 

誰のことを言っているのなんて聞かないでね😎。私は誰のことだかなんて全然言っていないからね😅。

 

 

まぁ、なぜか知らないが、こちらのブログも添付しておこう👋😁。



 

 

 

燃えたい。自分のやりたいことをやり尽くしたい。

 

 

では、やりたいことって何だ🤔。

 

 

って、古本屋でこんな漫画を見つけた。

 

 

この年齢で読むと辛い😅。だらけた人生を送っている40才の男が、脱サラして漫画家になることに挑戦する話だ。

 

 

「人生を1日でたとえると、今は何時だ」という、子どもにやる気を出させる私の定番のお話も漫画のネタになっていた😅。

 

 

私が小中高生によく言う話しはこちら👋😄

例えば人生72年として、人の一生を1日に例えたら、高校生はまだ朝の6時にもなっていない。人生96年としたら、高3生でも朝の4時30分なのよ。まだ起きていない。今起きていることは、全て夢の中での出来事なんだよ。夢なのに「可能性がない」って諦めるのか。諦める必要はないんだよ。それに本当の夢とことなることは、努力すれば経験値が上がるということ。「可能性」なんか考えず、ひたすら、自分の夢を現実にするために努力すれば良いんだよ😄


高校生のあなたへ👋😄 - つれづれなるままに

 

「俺はまだ本気を出していないだけ」と思うアラフィフオヤジはいたい奴だなぁ😅。

 

 

これまで本気を出してきたよ😤。

 

 

だから、これが実力かも。

 

 

ざ~んねん😱

お墓は誰のためにあるの❓️🤔

お墓って誰のためにあるのだろうか❓️🤔。毎週月曜日に父の墓参りをしている私は、こんな疑問が生じた。

 

 

今日は、朝7時30分に中2のチューと車でゴミ出しをした。

 

 

その後、近くのコンビニに行き、チューが買い物をする。200円程度の買い物よ😅。アイスを買ったり、団子を買ったり、ジュースを買ったりする。

 

 

前にも書いたけれど、課題のあるチューに1人で買い物をする練習を兼ねている。

 

 

その後、チューは学校に行った。妻はパートに行った。

 

 

月イチの診療所に行く日だった。

 

 

母に「診療所に行くついでにお墓を見てくるよ。」と言った。

 

 

私の墓参りは大抵「~のついで」にしている。

 

 

チューとの散歩のついで。

チューをデイ・ケアに送迎するついで。

診療所に行くついで。

 

 

そして、そのついでに母の買い物をする😄。

 

飲料水

お茶

お米

お菓子

アイス

など。

 

 

飲料水やお米は母には重たいだろうということで、私が買ってくる。私から「買ってくるよ」と母に言う。

 

 

さて、お墓は誰のためにあるのか。

 

 

少なくとも私は毎週何のために父のお墓に行って、生花を供えてくるのかだろうか。


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お墓は死者のためにあるのではない。お墓は生者のためにあると私は思うのよ😔。

 

 

お墓参りは、死者を弔うためではない。お墓参りは、生者の気持ちを安らげるためにするのだろう。

 

 

いや、「弔う」とは 死者の霊を慰めるためするのではなく、生者の気持ちを慰めるためのものであろう。

 

 

死ぬ直前まで「悔しさ」「苦しさ」「痛み」と言った感情があるだろう。しかし、死ねばそういった感覚から解放されるはずだ。死ぬという経験をしたことがないから、分からないが。

 

 

死者に喜びと悲しみも怒りもない。存在が人の心に残るのだ。「死んだ者が残っている心」を慰めるために葬式もお墓も法要もあるのだろう🤔。

 

 

父を失った悲しみは、今はない。いや、心の奥底にはあるだろうが、父の死の悲しみを今はあまり認識していない。それでも私が父の墓参りをするのは、母が喜ぶからだろう。

 

 

父が亡くなり十三回忌を過ぎたが、母は父の話をよくする。良いことも悪いことも笑って父の話をする。その話を私はきく。

 

 

父の墓に行くと言うと、母の表情がとても柔らかくなる。普段が固いと言うわけではないが。

 

 

お墓にお供えする生花代は母が出している。毎週千円だ。

 

 

母は「お父さんが生きていたらお酒を飲むでしょ。お酒の代わりに毎週生花を備えていると思ったら安すぎるわよ。」と言う。今は全く心配もなく暮らせるのは父のおかげという。仏壇はいつも綺麗だ。

 

 

年老いた母は出不精になった。あまり外出しない。腰が重くなった。だから、私がお墓に行くと言うと、お墓が気になっている母は喜ぶ。

 

 

さて、私は母亡き後、お墓に足繁く通うだろうか。こんなに足繁く通わないと思う。それは母のように喜ぶ人がいないから。

 

 

あぁ、「お前がいるからお母さんは大丈夫だろう」と、死の1週間前に、助手席に乗っている父に言われた言葉がまたよみがえる。

 

 

あぁ、私も亡き父を弔っている。この言葉があってもなくても私の母への態度や接し方に変わりはないと思う。しかし、父が安心しているであろうと思う。

 

 

故人の気持ちに沿って生きるのは、生きている者の気持ちに沿っていることが前提であろう。

 

 

故人の気持ちに縛られているのではない。故人の気持ちと生きている私の気持ちが合致しているのだ。

 

暴行現場に居合わせたら、あなたはどうしますか。

今日のブログはあまり共感を得られないだろうなぁ🤔。私も迷っているのだから…。

 

でも、思ったことや感じたこと、考えたことを、なるべく正直に書くことを信条にしたブログだから、書くわね。

 

 

 

「今回の事件には、居合わせた皆が介入するべきでしたし、誰かが何かをしなければいけなかったと思います。この女性を助けるために何もしなかった人たちには、呆れるばかりです」というティモシー・ベルンハルト警察署長のコメントを、The New York Timesは伝えている。


電車内で性的暴行を受ける女性を乗客全員が見て見ぬふり | 女性自身

 

 

 

私の次の言葉に違和感がある人はいるだろうか。

 

 

 

「暴行されている女性を助けた人は、賞賛されるのは当然だろう。その勇気に敬服する。」

 

 

 

この言葉に違和感を持つならば、女性を助けなかったことを呆れても良い。

 

 

 

しかし、この言葉に違和感を持たない人が、女性を助けなかったことを呆れるのは矛盾していると私は考える。

 

 

 

なぜか。

 

 

 

電車内で乱暴されている女性を助けるという行為は、賞賛される行為なんでしょ。

 

 

 

賞賛とは褒め称えるということよ☝️😔。

 

 

 

褒め称えるだけの価値がある行為なのよね。当たり前の行為じゃないから褒め称えるのよ。

 

 

 

褒め称えられるのは、女性を助けるという勇気よね🙄。勇気がなくては、暴行を受けている女性を助けることは出来ない。

 

 

 

周りから賞賛される当たり前ではない勇気を全ての人に求められるのだろうか。

 

 

 

いや、当たり前の行為ではないのだから、全ての人に求められないものだろう。

 

 

 

賞賛される行為をしなかったからと言って、呆れても蔑視するのは矛盾しているじゃないかしら。

 

 

 

誰もがしなくてはならないことをしない人に対して呆れるんじゃないかと思うのよ🙄。

 

 

 

この警察署長は、暴行犯を取り押さえた市民に感謝状は贈らないのかしら。取り押さえないことを呆れるんだから、理屈の上では取り押さえても当然と思うわよね。

 

 

 

助けないと呆れて、助けたら感謝状を贈るのは、心に大きな矛盾を抱えていると私は思う。

 

 

 

「感謝する行為をしろ」と強制しているんだから、この思考の方が私は怖い。

 

 

 

なんかうまく説明できない😣。

 

 

 

つまり、「暴行犯を取り押さえることなんて、一市民にはハードルが高尾山くらい高い」ということよ。

 

 

 

自分が被害にあったら、助けてほしい。助けてほしいのなら、人が被害にあっているときに助けるべきだ。この理屈は正しい😔。

 

 

 

私は電車内で暴行受けている女性を助けるだろうか😣。

 
 

 

 

助けるという行為には勇気がいる。

 

 

 

電車内で女性を暴行する奴は、アタマのおかしい奴だといってもよいだろう。凶器を持っているかもしれない。腕っぷしが強いかもしれない。周りに凶悪な仲間がいるかもしれない。そういうことを想定すると、保身に走るのは人間の性だ。この警察署長は人間の性に対して呆れたと言えよう。

 

 

 

だって考えてみてよ😥。

 

 

 

学校で虐めにあって自殺しても、教師も級友も「虐めはなかった」とするじゃないか。

 

公文書を改竄することを強要されて自殺した役人がいても、もう過去の事として再調査をしないじゃないか。

 

暴力団にラチられた大学生が車内に監禁されている可能性を知りながら見殺しにしたのは警察官だったじゃないか。

 

挙げていったらキリがない。それらを追及しようとしたら、「もう終わったことを今更、もっとやるべきことがあるだろう」としたり顔でいう人がいるのよ。

 

 

 

こういう例がたくさんあるのに、女性が乱暴されている車内に居合わせた人が女性を助けなかったと言って呆れられるのは、理不尽なようにも思ったのよ😣。

 

 

 

それに、これとそれとには大きな違いがある。私が挙げた学校の虐めも役人の自殺にしても見殺しにされた大学生にしても、どれも助けるべき人、究明すべき人が、その役目を果たしていない。

 

 

 

学校の先生、政治家、警察官、どれも保身に走っているじゃないか。彼らが保身に走るから、私も保身に走って助けなくても良いとは言えないことは分かっている。

 

 

でも、助ける義務のない一市民が助けなかったからといって非難される謂れはないように思ったのよね。

 

 

 

それにアメリカじゃ、暴行犯がピストルを持っている可能性があるわね😣。

 

 

 

私がその電車に乗り合わせたら、その女性を助けたい。しかし脳裏には妻や子や母の顔が浮かぶ。その守らなくてはならない者を省みず、見知らぬ女性を助けられるだろうか😣。

 

 

助けられないよ❗️❗️😣

 

 

そう❗️

自分には出来ないことをした人を賞賛するのよ。そして敬服するのよ。私はそういう狂人に立ち向かう人を賞賛し、敬服する。そして、自分は賞賛され敬服される人になれない弱虫な小人よ😣。

 

 

 

助けなかった人を呆れたのは警察署長だ。貴方が職務中なら、そういう被害者を助けて当然だろう。それが使命なんだから。その使命を一般の人に求め、それが出来ないと蔑む性根が気に入らない。

 

 

 

「居合わせた皆が介入するべきでした」というけれど、その場に偶然居合わせた人たちが一致団結して暴行犯に立ち向かえないだろう。それに暴行犯に最初に立ち向かった人は殺されることだってある。

 

 

三國志の英雄である張飛は1人で、長坂橋で主君の宿敵曹操軍百万と対峙したと言われる。

 

 

 

誇張もあるが、これを荒唐無稽と言うことはできない。

 

 

百万人で一気に攻撃できれば張飛は死ぬが、最初に張飛を攻撃した兵士は確実に殺されるだろう。

 

 

 

張飛は一騎で1万人を相手に戦える豪傑と言われた。味方が大勢いたとしたも、一番槍を突くのは至難の技だ。誰も死にたくも怪我をしたくもないんだよ。

 

 

 

暴走族の喧嘩で、1人で千人を相手にしたなんて話も聞く。宇梶剛士さんだったかしら?🤔

 

 

 

一致団結するなんてとても難しいことよ。飛躍だが、SNSをやっているとよく分かる。自分にとって良いことが、他人にとっては全く共感できないってことがあるでしょう。

 

 

 

平時でも意見の一致や共感が難しいのに、緊急時だったら、尚更難しくなるわ。

 

 

 

昔、始発駅の終電に乗って帰る途中、車内で喧嘩しているオヤジと学生を見かけた。酔っぱらっているオヤジが学生に絡んでいる。学生はひ弱そうだ。2~3駅ずっと学生を絡んでいる。周りはオヤジを注意しない。

 

 

 

若かりし私はオヤジを注意してしまった😣。

 

 

 

そしたらオヤジは私に絡んできた。学生はその隙に下車してしまった😱。次の駅で駅員が入り、周りもとりなしてくれて、私に非がないことになったが、この経験から、金輪際、自分が他人のトラブルを直接解決しようとは思わなくなった😥。

 

 

 

そういえば、混浴温泉で溺れた女性を助けた旅館の従業員が、誤って逆に温泉に溺れて死んでしまったという事故を思い出した。その女性は男性と温泉に入っていたが、2人とも逃げてしまった。

 

 

 

他にもこんな痛ましい事故がある。

「夫が目の前で溺れている子供を見て、でも勇気が出なくて飛び込まなかったら、夫は心にトラウマを持つことになったかもしれません。でも私はね、飛び込まないでほしかった。」

近所のどこかで取材したのだろう。「子煩悩で、子供をよく肩車していた」とか「近所の子供を集めて遊んでいた」とかいう文字が目に入った。「肩こりで肩が痛くて、肩車なんてできなかったよな。」記事と実際との乖離が全然飲み込めなかった。そのほかにもいろいろと書かれていたけれども、それ以降、記事には目を通していない。

「これって美談なの?」冗談じゃない。私たちにとって大事な大事な夫でありお父さんが、突然いなくなったんだよ。他人から見れば、子供を救助しようとして命を捧げた人かもしれないけれども、家族からしてみれば「なんで、そんなことをしたの。」

 

 

 

車内で襲われている女性を目の前にして、その女性を助けなかった人たちを私は責められない。

 

 

 

その女性が私の身内だったら、私は助けなかった周りの人を責めただろうか。

 

 

 

何で助けてくれないんだと責めるだろう。

 

 

 

じゃぁ、自分は助けるかというと、助けることはできなかっただろう。

 

 

 

と、他人を助けるとか、助けないという行為の評価はとても難しく、一概には言えないものだと私は思う。

 

 

 

「絶対助ける」という信条を持つ人に対しては、私は賞賛するだろう。

 

 

 

私がK−1チャンピオンだったら、助けるかもしれないが、相手が凶器を持っているかもしれない。

 

 

 

でも、世間体を気にして助けるかも。いや、世間体を気にしている時点で、K−1チャンピオンになんてなれないだろう。

 

 

 

「助けない」という考えを持つ人に対しては、私はそれはそれで仕方がないと言うだろう。

 

 

 

「その場に遭遇してみないと分からない」という人に対しては、それは当然だろうと言うだろう。

 

 

 

「被害にあっている人を助けられなかった」という人に対しては、「怖かったんだね」と伝えるであろう。

 

 

 

私は…、影にかくれて、通報することで精一杯であろう。それだって見つかれば何をされるか分からないんだから。

 

 

 

人情や正義感に命を懸けられるのか。命を懸けられないことは非難されることなのだろうか。いや、非難されることではない。

 

 

 

それに、もしも暴漢を殺してしまったら、それが正当かどうかが争われ、女性を助けたのに犯罪者にされてしまう可能性だってあるのよ😱。

 

 

 

周りにそんなにたくさんの人がいるのに助けなかったと呆れたこの警察署長には、私は全く共感できないわ😣。

 

 

 

この警察署長は呆れる対象を間違えている。呆れる対象は助けなかった人ではなく、この強姦魔じゃないか❗️❗️

 

 

 

そういう犯罪を防ぐには、あらゆるところに防犯カメラを設置しなくてはならないかしら。

 

 

 

いや、防犯カメラを設置しても犯罪を防げないだろう。ドライブレコーダーがあんなに普及しても、あおり運転がなくならないからなぁ😣。

 

 

 

見知らぬ人が暴行を受けている現場に居合わせたら、皆さんは必ず助けると言えますか?

 

 

 

「腕力もない、武器もない、勇気もない、仲間もいない、若さもない」という5ナイオヤジは「必ず助ける」とは言えない。助けるとしたら、衝動的なものだろう。

 

 

 

目の前で人が襲われていたら、どういう行動をすることが正解なんだろう😣。分からない。

 

 

 

あぁ、こう考えていくと、虐めも不正もなくならないものなんだろうなぁ😣。誰も火中の栗を拾いたくはないし、自分に関係がなければ関わりたくない。

 

 

 

しかし、私は、これだけは断言できる。自分が出来ることをやる。通報すると。暴行犯を取り押さえるべき人に取り押さえさせる。暴行犯を取り押さえる義務のない人が取り押さえたら、賞賛する。